時代 Oitan

第35代横綱双葉山

故郷USAを愛した史上最強の男が生きた道

宇佐市が生んだ昭和の大横綱・双葉山。

年2場所時代(当時は年に2回興行を行っていた)の昭和11年から14年にかけて、ひたすら勝ち続け、連勝記録歴代第1位の69連勝を果たしました。

また、力士の鑑と言われる言動も評価され、「昭和の角聖」「相撲の神様」とも称されています。

歴代の力士で、60連勝以上を記録したのは、双葉山(69連勝)、谷風(63連勝)、白鵬(62連勝)の3名のみ。

双葉山の記録は、未だ誰にも破られていない不滅の記録なのです。

今回は双葉山の故郷、宇佐市下庄(しもしょう)にある「双葉の里」を訪ね、その少年時代にスポットを当てて、強さの原点を探ります。

辛く切ない家庭環境で育った少年時代
▲当時の間取りに基づいて復元された双葉山の生家

双葉山の本名は穐吉定次(あきよし さだじ)。1912年(明治45年)2月9日、大分県宇佐郡天津村(現在の宇佐市下庄)に生まれました。

船舶運送業を営む実家は裕福だったそうですが、9歳の時に母親と妹を亡くし、定次は祖母に育てられます。

やがて父の事業の失敗により、家が借金を抱えてしまうことに。定次は積極的に家業を手伝いはじめ、自ら船頭を務めるようになります。

13歳の時には乗っていた船が遭難し、九死に一生を得るという壮絶な経験もしました。

14歳にして身長170センチ台と、すでに立派な体格をしていた定次は成績優秀な少年でした。小学校の通信簿は、甲・乙・丙・丁 評価で”オール甲”。

性格は真面目で心優しく、無口。ケンカなどをするタイプではなかったそうです。スポーツは万能でしたが、意外にも相撲は苦手だったとか。

小学校の先生に中学校への進学をすすめられるほど優秀だったのですが、家族思いの定次は苦境にあった家業を手伝うため、進学を断念します。

こうして、熱心に仕事を手伝ううちに自然と足腰が鍛えられ、強靭な体がつくられていきました。

あるとき、隣村で行われた相撲大会を見学していた定次は、地元の村の人たちに無理矢理土俵に上げられます。

相手は隣村で強いと評判の青年。相撲が苦手で、あまり乗り気ではなかった定次ですが、「押せ、押せ」と聞こえて来た声のとおりに押してみたら、たちまち相手が腰から崩れ落ちてしまったといいます。

相撲の技術もない子どもだった定次が、百選練磨の猛者にたやすく勝ったのだから、近隣の村は大騒ぎ。

この大会が新聞に取り上げられたのがきっかけとなり、翌年の昭和2年、15歳で立浪部屋に入門。双葉山として相撲道を歩みはじめます。

二度の事故、ふたつのハンディ
▲横綱時代の双葉山の手形。右手小指が短く、先が丸い。

 

双葉山は69連勝の偉業からは想像もできない、ふたつの身体的なハンディを抱えていました。

一つは右目の視力を失っていたこと。もう一つは、右手小指の先が押しつぶされて丸い形をしていたこと。力士にとっては致命的と思えるようなふたつのハンディは、いずれも少年時代に起きた出来事が原因でした。

右目を負傷したのは6歳のころ。子どもたちが遊びで飛ばしていた吹き矢が瞳孔に刺さってしまったのです。

それから1年間入院して治療を続けましたが、視力は回復しませんでした。

右手小指を負傷したのは14歳のころ。家業の手伝いで、船を停めようと碇をおろす作業をしていたときに、右手小指を鎖に巻き込まれてしまいます。

この時、涙は流していたものの、痛いと泣きわめくことはなかったそう。驚くほど辛抱強い子どもだったようです。

そのせいで双葉山の右手小指は少し短く、先は丸くなっていたことが、横綱時代の手形を見てもわかります。

まわしは、まず小指からつかむため、小指が短く先が丸いことは相撲を取る上では不利でした。

さらに、右目が見えないことで「立ち合いの時がこわかった」と、後に双葉山は語っています。

そこで自身で編み出したのが、立ち合いで、まず相手を受けて立つ方法。

一見、立ち遅れているように見えるのですが、組んだときには既に先手を取っていることから、「後の先(ごのせん)」と呼ばれています。

いかに集中し、神経を研ぎ澄まして立ち合いに臨んでいたかがうかがえます。

ちなみに右目が見えなかったことは現役時代に気づかれることはなく、引退した後に、自ら語っています。

故郷から続いていた栄光への道

▲昭和14年夏場所の優勝写真

母と妹の死、父の事業の失敗、身体的なハンディ。

辛い経験の数々は、ふり返れば、双葉山の体と心を鍛える試練になっていた、とも言えます。

目の前の試練とどう向き合い、どう解決するのか、自ら考え、乗り越えてきた双葉山は、「相撲道」を極めたその精神も称えられました。

双葉山が残した名言に、「われ未だ木鶏(もっけい)たりえず」というものがあります。

「木鶏」とは中国の故事に由来し、木彫りの鶏のように全く動じることのない闘鶏をさします。

70連勝をかけて挑んだ取り組みで黒星を付けた双葉山は、その日の夜、木鶏のように無心になれなかった自分を戒め、この言葉を電報で知人に打ちました。

そして69連勝の大記録を残した後も、さらに精進を重ね、3度の全勝優勝を含む7度の優勝を成し遂げるという、素晴らしい成績を残しています。

連勝記録がクローズアップされがちな双葉山ですが、相撲を求道する精神、横綱としての品格などは、私たちに人としてあるべき姿を示してくれます。

名横綱としてはもちろんですが、郷土の、そして、日本の偉人としても語り継がれるべき存在です。

おわりに
▲お話をうかがった「双葉の里」穐吉敏行館長と、宇佐市観光・ブランド課の井ノ口 華奈さん

苦難の多い少年時代を過ごした故郷ですが、双葉山は地元を大切に思い、また、地元の人々も双葉山をずっと支援し続けました。

地元に帰って来たときは、周防灘で獲れた新鮮なサバの刺身や煮付け、干しアミ(アミエビという小さなエビを茹でて、干して味付けしたもの)を混ぜ込んだご飯など、双葉山の好物を用意して、村をあげて盛大にもてなしたそうです。

また、双葉山は、母校である天津小学校の子どもたちにキャラメルを配ったり、村に子ども神輿を寄贈したり、中学校にピアノを寄贈したりと、地元の子どもたちのことも思いやり、夢を与え続けました。

「双葉の里」の穐吉敏行館長は子ども時代、理事長就任後の双葉山を実際に見たことがあるそうです。

双葉山が実家に戻っていたとき、家のまわりに出来ていた人だかりに交じって見ていたら、一瞬、双葉山と目が合い、「眼光の鋭さを感じた」ということです。

館長曰く、「視力を失った右目は白濁していて、目に後光が差しているようだった」、とのこと。

子どもながらにも、ただならぬオーラを感じたそうです。

 

双葉山の経歴

昭和2年、15歳で立浪部屋に入門。東前頭三枚目だった昭和11年1月から69連勝がはじまる。昭和12年、25歳の時、第35代横綱に昇進。昭和14年、連勝は69で止まる。横綱現役中の29歳の時、「双葉山相撲道場」を創設。昭和20年、33歳で引退。昭和32年、45歳で相撲協会の理事長に就任。昭和43年、56歳で死去。

 

今回、取材協力していただいた【双葉の里】
▲「双葉の里」の敷地内には、双葉山、谷風、白鵬の手形が刻まれた「超六十連勝力士碑」がある

双葉山の生涯や記録、思想などを紹介するとともに、宇佐市を広く発信する観光交流施設。双葉山の生家と展示室を見学でき、県外からもたくさんの相撲ファンが訪れています。貴重な写真や映像、等身大の像や、超六十連勝力士碑など、見どころ満載。春はさくらまつり、秋は菊花展が開催されています。

 

双葉の里

住所 大分県宇佐市大字下庄269番地

電話 0978-33-5255

営業時間 9:00~17:00

休館日 第3月曜(月曜が祝日の場合は開館、翌火曜休館)、年末年始

入場料 無料