時代 Oitan

キヤノン初代社長御手洗 毅

転生したら世界一を目指した漢の右腕になっていた件

カメラで有名な「キヤノン」は、誰しも耳にしたことがある企業ではないでしょうか。特に大分県にはキヤノン関連の企業が数多くあり、県民にとって馴染み深い企業といえます。
キヤノンの創業は戦前の1937年。高級カメラの国産化を志した青年達が1933年に開設した精機光学研究所に、当時、国際聖母病院の産婦人科部長の身であった御手洗毅らが資金援助をして精機光学工業株式会社を立ち上げたことに端を発します。
今や日本を代表する企業にまで成長したキヤノンですが、初代社長の御手洗毅はどんな想いで会社の舵をとっていたのでしょうか。
今回お届けするのは、御手洗毅にまつわる逸話をもとにした短編小説。彼の大事にした考え方や価値観は、何かに挑戦したいと考えている方の指南書となってくれるでしょう。

プロローグ

俺の名前は根和栄太郎(ねわえいたろう)。大分で生まれ育ち、東京の有名大学を出て、大手企業に勤める高学歴エリートだ。土日返上で働いた結果、29歳で年収が1000万を超えるようになった。
たまに実家の母からLINEで連絡がくることもあるが、他愛のない近況報告と意味不明なスタンプが送られてくるだけなので、仕事が忙しく返信をすることはほとんどない。

今日もいつも通り徹夜で仕事に取り掛かっていたが、ふと隣を見ると、古びたカメラが置かれていた。最初はミラーレスカメラかと思ったが、どうやらフィルム式のカメラのようだ。

カンノンカメラ
▲1934 年に試作されたカメラKWANON(カンノン)

仕事もひと段落ついたところだったので、興味本位でイジっていると、本体からファインダーが飛び出してきた。「穴があれば入りたい」という言葉が頭に浮かんだが、今の俺の状況だと「ファインダーが出たら覗きたい」が適切だろう。
俺は吸い込まれるようにファインダーを覗き、薄暗い社内を試し撮りしようとシャッターを押してみた。
「カシャッ」とカスレた音が聞こえたかと思った途端、バッテリー切れのPCのように目の前が真っ暗になった。

目が覚めた時、俺は衝撃を受けた。
いつも通りの社内かと思っていたが、デスクには古びた電話らしきものや、手書きの書類などが散乱していたのだ。
「おい、根和!何寝てんだ!」大声が聞こえてきた方へ目をやると、小太りの男がこちらを睨んでいる。
首から提げている名札を見ると、「キヤノンカメラ株式会社 細木カズオ」と書いてある。俺は今、キヤノンにいて、この小太りの男は同僚らしい。名前と見た目の乖離に戸惑ったが、ひとまず「すみません」と謝っておいた。

状況を整理しようと、社内に置かれた新聞を見てみると、どうやらここは1950年1月30日のようだ。70年近くタイムスリップしている……。どうせなら異世界転生の方が楽しめただろうに。
こんな状況でも慌てずに順応できるのも、俺がエリートだからこそだろう。せっかくタイムスリップしたのだし、同郷の先輩でありキヤノン初代社長の御手洗毅という人物でも見極めてやろう。

【エピソード1】優秀な人材orエリート

「いやぁ〜、やるじゃないか、根和」酒を飲みながらそう話すのは、ギャップの男、細木だ。

タイムスリップしてからおよそ10年の歳月が流れた。バタフライ・エフェクトやカオス理論など、タイムスリップが未来に与える影響を考慮し、この時代のキヤノンの社員として働いている。
初めは1950年代のITインフラに愕然としたが、仕事のできる俺はそんな状況でも結果を出し続けた。

そして、数年前に御手洗毅社長から任された「キヤノネット」の事業は、3万円以上の高級カメラしか手掛けていなかったキヤノンが、初めて中級カメラを開発する一大プロジェクトだ。

キヤノネット
▲1961年に発売された「キヤノネット」

社員が一丸となって取り組み、完成後は爆発的な人気が出た。この時代の家庭用カメラとしては最高性能を誇りながらも、当時の大卒者の初任給で購入できる2万円以下の低価格帯がヒットの理由だろう。

今日は、キヤノネットの発売から2年半が経ち、100万台の生産累積台数を祝して社長たちと会食に来ている。酒に弱い細木はすでに酔い潰れており、隣でいびきをかいている。
事業を成功に導いた自信からか、酔っていたせいか、俺はこれからのキヤノンについて御手洗社長と話すことにした。
会社としてまだまだ成長できると確信していた俺は、「これからの大事な時期は優秀で体力がある人材、つまりは高学歴の男を採用していきましょうよ!」と提案してみた。事業が成功したのも、俺が高学歴で体力があったからだ。

しかし、御手洗社長の意見は違った。「学歴や性別は関係ない。重要なのは実力だ」と少し残念そうに言い放ったのだ。そう言った御手洗社長は、会計を済ませて帰ってしまった。

「まぁ、そう気にするなよ」細木が呑気な声で話しかけてきた。起きていたのか。
「キヤノンは創業時から実力主義を謳っている。今回のキヤノネットの成果は、根和の力もあるが、学歴に関係なく実力がある社員たちと勝ち取ったものだ」
細木が言うには、会食に着く前に社長とそんな話をしていたらしい。

事実、御手洗社長は性別や学歴を区別せずに管理職への昇格試験を実施していた。管理職になってからの評価も完全実力主義を貫き、社員たちが生き生きと働ける環境を整えたのだ。カメラ開発の技術職も同様に、社員ひとりひとりの実力を評価したことで、優秀な人材が集まるようになっていった。

俺は自分以外の人間にあまり興味がなかったが、今回のプロジェクトを思い返すと、御手洗社長の掲げた実力主義が大きく影響していたのだと思う。

「そういえば、職場の仲間のことを全然知らなかったなぁ」
翌朝、御手洗社長に怒られないかと身構えていたが、出社してみると普段通りの様子だった。
しかし、自席に着いてから周囲を見渡すと、どこか違和感がある。いつものオフィスではあったが、社員一人ひとりの顔がよく見えるようになった気がした。

キヤノネット初出荷
▲キヤノネット初出荷時の写真
【エピソード2】仕事or生活

キヤノネット事業も落ち着き、御手洗毅の右腕として奮闘していたある日のこと。翌日は休日だったこともあり、俺は徹夜で仕事することを決めていた。
対外向けの資料を作成したり、人事評価をまとめたりと、やることが詰まっていたことも一因だ。現代ならPCですぐに終えられるものも、ここではアナログで進めなければならない。
夕方になり、社員は全員帰ったのだろうと思っていたが、ドアの開く音が聞こえた。「なんだ、まだいたのか」落ち着いた声と共に現れたのは御手洗社長だ。

「明日は休みですが、やることもないのでこのまま仕事してようかと思っています」と答えた。
それに対して、御手洗社長の顔が曇ってきた。いつかの会食で見せた表情を思い出す。「GHQだ!早く帰りなさい」と怒り気味に言ってきたため、しぶしぶ帰宅することにした。

「GHQ」と聞くたびに、パイプを燻らす姿が印象的なマッカーサーのことを思い出すが、御手洗社長の発したGHQとは、Go Home Quicklyの略だ。簡単に言うと、「仕事が終わったら早く帰れ」という意味合いである。
これは、部下たちと共に成功に導いた「キヤノネット」の発売が始まる前の、1959年から御手洗社長が提唱し始めたが、現代で言うワークライフバランスのようなものだろう。

ただ、やり残しが嫌いな俺は、こっそりと自宅で仕事をすることにした。「仕事よりもやりがいのあるものはない」と考えていたからだ。実際、食事中も風呂に入っている時も仕事のことを考えていたが、これといって支障はない。むしろ成果を出すのが楽しいくらいだ。

御手洗毅
▲1950年代の御手洗毅氏

持ち帰った仕事も終え、出勤日がやってきた。いつものように御手洗社長に挨拶をしたら、「休日はどうだった?」と尋ねられた。「楽しかったですよ」と返したが、俺の雰囲気のせいか嘘がバレているようだ。
弁解しようと、俺は仕事への熱意や生き甲斐を伝えたが、御手洗社長は納得しない。

御手洗社長は俺の働きを評価してくれていたが、「うちの会社では全員が家族だと思っている。働いてばかりが人生ではなく、休みの日は家族との団らんを楽しんだり、健康的に過ごしたりしなさい」と諭した。
そして、俺のような社員がいることに危機感を覚えた御手洗社長は、1967年に週休二日制を導入し、業務分散や健康増進への取り組みを本格化したのだ。

この一件があって以来、俺は残業も仕事の持ち帰りもやめた。社長の右腕としての在り方を考え、俺のことを評価してくれている御手洗社長を裏切れない気持ちが湧いてきたからだ。

休みを取り始めた頃は、家で寝ていたり近くを散歩したりするだけだったが、今では銭湯に行ったり釣りに行ったりと、趣味や交友関係が広がっている。そして、これが意外にも仕事に活きた。働き詰めの日々よりも考えがクリアになり、身体が軽くなったのも実感している。

銭湯に行くようになったからか、昔よく行っていた天ヶ瀬温泉や家族のことをよく思い出す。

天ヶ瀬温泉
▲日田市にある天ヶ瀬温泉
【エピソード3】損得or陰徳

1970年には400億円以上の売り上げを叩き出したキヤノンは、日本有数の大企業にまで成長していた。
そんな中、御手洗社長が新たに始めたのが「視聴覚補装具事業」、キヤノンの社会貢献活動の一端を担うユニークな組織である。御手洗社長が訪米した際、スタンフォード大学教授から、全盲の娘のために考案した文字読み取り装置「オプタコン」に関する話を聞く機会があった。教授の話に感銘を受けた御手洗社長は帰国後、事業化の可能性を追求したのである。

オプタコン
▲全盲の人でも文字が読める装置「オプタコン」

この事業部が発足する前に企画担当者に任命されたのが、名が体を表さない男、細木である。「承知致しました!」と威勢よく答えた細木は、オプタコンの販売、導入についての調査に乗り出した。
その結果、日本の目の不自由な人たちの間でもこの種の機械が熱望されていることが分かったのだ。しかし、事業としてオプタコンを取り扱うには障壁が多く、輸入販売しようという企業がなかったのである。
御手洗社長の隣で細木の報告を聞いていた俺は「これは日本での市場を独占できるのでは?」と考えたが、報告の続きを聞いて一転した。
どうやら、日本の盲人団体からニーズのあるオプタコンは精密な動作が重要な装置で、故障した際のアフターサービスや、購入した人が使えるようにするためのサポートが必要になってくる。リスクが目立つためにどの企業も輸入販売に及び腰だったのだ。
細木は、報告の最後に「経費がかかり過ぎるため、キヤノンでできるか自信がない」と漏らした。確かに、実際に進めるとなると今まで以上の困難が待ち構えているのは想像がつく。

そんな細木の弱音を吹き飛ばすかのように、御手洗社長は力強く言葉を発した。
「欲しいという声があるのに、『できない』とはどういうことだ!できるようにしたらどうだ!」
勢いに飲まれそうになるが、細木も失敗したくないのだろう。一企業が対応するにはリスクが大きすぎるため、厚生省など国が対応するのが適切ではないかと打診したのだ。
しかし、御手洗社長は「困っている人がいるのに、見て見ぬフリをするのか!キヤノンにそんな大馬鹿者がいるとは思わなかった」と、さらに語気を強めた。

御手洗毅
▲御手洗毅氏1977年時の写真(76歳)

後日、落ち込んだ細木を見かねた俺は援護射撃を打とうと、この事業で世間が評価してくれるとは限らず、宣伝のために盲人を利用していると思われる可能性もあることを伝えた。
だが、御手洗社長が返したのは「『陰徳(いんとく)』というものがある。善というのは隠れてするものだ」という一言だけだった。

正式にオプタコン事業の担当者となった細木は、それを必要とする人のため、そして御手洗社長の期待に応えるために尽力した。1974年には盲人用電子読書器「オプタコン」の販売がスタートし、毎年およそ1億円の赤字を出しながらも日本だけでなく欧米にも流通させたことで、多くの人を救ったのである。

オプタコン事業で細木のサポートもしていた俺は、かなりの疲労を感じていた。新しいことに挑戦することは、簡単なものではない。けれど、挑戦することのやりがいや意義は、やってみないと実感できなかったものだろう。ちょっとした物思いに耽っていたが、あたりを見渡すと社内にいたのは俺だけだった。
そろそろ帰ろうかと席を立った時、細木のデスクの上にあったカメラが目についた。「たしか、こんなカメラで過去に来たんだっけ……」と思い、本体から突き出たファインダーを覗き込み、シャッターを押してみた。

誰もいない社内に「カシャッ」という心地良い音だけが響いた。

エピローグ

「次、止まります」
機械的な声と共に目が覚めた。あぁ、バスで寝ていたのか。母から「たまには大分に帰っておいで」という連絡があり、休日を利用して大分に戻っていた。

バスの停留所でお年寄りが乗車したが、席が空いていなかったので「良ければどうぞ」と席を譲った。「ありがとうねぇ」というご老人の礼を受け、むずがゆくも温かい気持ちになる。今までは気にしていなかったが、こうした行動も陰徳なのだろう。

御手洗毅の右腕として働いた日々は、夢だったのかもしれない。けれど、彼の下で学んだことが世界や周りの見方を変えてくれた気がする。せっかくの休みに帰省したのだ。天ヶ瀬温泉でのんびりしても良いし、久しぶりに同級生に会いに行っても良いだろう。
今なら仕事だけじゃなく、自分も周りの人も大切にできる気がする。

御手洗毅の経歴

1901年に大分県南海部郡蒲江村(現在の佐伯市蒲江)で生まれる。生家は瀬戸内海の水軍を祖とし、蒲江で大庄屋を何代にもわたって務めた地元の名家である。佐伯中学校卒業後は北海道帝国大学医学部に進み、1928 年に卒業。産婦人科医として活躍する一方で、カメラの国産化を目指す吉田五郎や内田三郎との出会いを機に、キヤノンの前身である「精機光学工業」の設立に参画する。設立当初は医者を続けながら監査役として奔走。1942年に社長となり、自発・自治・自覚の「三自の精神」や、「実力主義」、「健康第一主義」、「新家族主義」などを掲げ、社員たちの教育やプライベートの充実を促した。
1974年には前田武男が社長を継いだが、御手洗毅は1984年に亡くなるまで会長としてキヤノンの行く末を見守った。

【ミニコラム①】
こんな社長に出会いたい!御手洗毅の人間味あふれる逸話

今回の記事で紹介したように、御手洗毅は当時の日本社会では異端の存在でした。
なかでも「新家族主義」は封建的な日本社会から脱却し、社長と従業員との睦まじい関係性を目指した標語です。
「憂いも喜びも、ともに頒(わか)ち合うことでみんな行こうじゃないか、これを一つ君達と徹底的にやろうじゃないかというのが私の新家族主義です」
(出典:『都ぞ弥生の 御手洗毅 追悼集』より)

この言葉通り、日頃の働きを労うために年に一回は社員と彼らの家族を歌舞伎座や劇場に招待しました。さらに「永年勤続表彰」や「家庭平和賞」の授与、誕生日の社員を祝う「お誕生会」の実施など、社員のことを考えた取り組みを行なってきたのです。
また、社内結婚式では会社が費用の大部分を負担したほか、多摩川の河原で盆踊り大会を開くなど、御手洗毅は心から社員のことを家族として捉えていたことがうかがえます。

【ミニコラム②】
キヤノンのカメラで撮影した大分の写真

キヤノンのカメラで撮影した大分の写真

大分県豊後大野市にある原尻の滝。「大分のナイアガラ」と冠するこの滝は、「日本の滝100選」「大分県百景」の1つに挙げられる名爆です。幅120m、高さ20mの大迫力。

[住所]〒879-6631 大分県豊後大野市緒方町原尻936-1
[アクセス]大分駅から車で1時間ほど。阿蘇やくじゅうも近いので、セットで行くのがおすすめです

キヤノンのカメラで撮影した大分の写真

大分県中津市深耶馬渓にある「一目八景(ひとめはっけい)」。名勝・耶馬溪の中でも特に風光明媚と称され、とりわけ山国川の支流、山移川に沿った景勝地は、一度に海望嶺、仙人岩、嘯猿山、夫婦岩、群猿山、烏帽子岩、雄鹿長尾嶺、鷲の巣山の八つの景色が眺望できることから「一目八景(ひとめはっけい)」の名がついています。

[住所]〒871-0422 大分県中津市耶馬溪町大字深耶馬3152
[アクセス]玖珠ICから車で約15分