時代を創るOitan

津久見といえば…
みかん、セメント、高校野球

2022.08/19

高校球児にとって憧れの聖地といえば、何と言っても甲子園。毎年開催される春の選抜高等学校野球大会、夏の全国高校野球選手権大会は、日本の風物詩となっており、ここで活躍してプロ契約を結んだ選手はたくさんいます。その夢舞台で、九州で唯一、春・夏の優勝を飾った監督が、小嶋仁八郎・元津久見高校野球部監督です。数々の伝説を残した小嶋監督の妄想インタビューを企画してみました。

津久見市民球場には、小嶋監督の功績を称え銅像が建つ

「相撲の神様」の誘いは断ったが
「学生野球の神様」と出会う

───小嶋監督、お久しぶりです。いまだに春夏の甲子園大会シーズンになると、監督の顔を思い浮かべる高校野球ファンは多いそうですよ。

そうか。甲子園大会の時期はワシも気になってアチラの世界から観戦しちょるぞ。九州の高校で春夏優勝を経験した監督は、いまのところワシだけやけんな。甲子園の土も夏に10回、春に4回も踏んだんや。

───監督自身はどんな野球人生を歩んできたのですか。

ワシは津久見の廻船問屋の11人兄弟の4男坊。野球を始めたのは小学4年で、6年の時はエースとして津久見小学校を少年野球大会で優勝に導いたんぞ。旧制・臼杵中学に進学してからも野球を続けち、最初は内野手やったけど3年の時に再びピッチャーに返り咲いたんや。球は速かったけど、コントロールはサッパリじゃったけどな(笑)。ただし打撃はピカイチで、打線を引っ張ったもんや。身長170cmと、当時としては体格がよかったんやけど、ウチのオヤジは野球より相撲が好きでな。津久見へ地方巡業に来ちょった天下の横綱・双葉山に「これを東京に連れて行ってくれんかのう」と頼んどったのには参ったわい。双葉山親方から「相撲取りになれ」ち言われちからビビったのは、今でも忘れられん(笑)。

───相撲取りになっていたら、津久見高校は相撲部に力を入れていたかもしれませんね(笑)。

卒業後は中央大学法学部にギリギリの成績で進学。中央大の野球部に入ったのは九州で第一号じゃったが、甲子園に行ったこともないワシは他の部員の話についていけんで孤独感を味わったもんじゃ。そげん時に出会ったのが飛田穂洲(とびた・すいしゅう)さん。「学生野球の神様」と呼ばれ、あの有名な「一球入魂」は、こん人の言葉でな、ワシもいろいろ学ばせてもろうた。ワシが津久見高校ん監督になってからも、何かにつけ相談にのっちくれた。どんだけ練習しても結果が出らんで悩みよった時、飛田さんに手紙を書いたんや。そん時に送ってきた返事に書いちょったのが「其途尽」の一言。「勝負に勝とうと思うな、無欲で尽くせ」という意味や。勝ちにこだわりよった自分の若さを思い知らされたわい。

───深いですね。

中央大学時代にノーコン投手やったワシに、アドバイスもしちくれた。「おまえの球は速いが、制球力を付けるには球を目の前で放すように投げろ」「打者の心理を読んで配球を組み立てろ」「投手は毎日練習しないとコントロールは上達しない」とかな。そこからワシは毎日300球を投げ続けた。今はそこまで教え子に投げさせたらマズかろうが、当時のワシは必死やった。じゃが、そのおかげでエースの座を掴んで、東都大学リーグ連覇で優勝投手になったんぞ。太平洋戦争が始まった昭和16年やった。

ノンプロ、プロを経験するも、
持って生まれた信念を貫く

───卒業後は?

ワシは肋膜炎(ろくまくえん)と診断されて戦争に行けんで、中大卒業後は社会人野球の名門・八幡製鉄所(現・日本製鉄)で働きはじめた。戦争が終わって津久見に戻ることになって、軟式野球をしよったところノンプロの別府星野組に誘われ、昭和21年に入団。「火の玉投手」で有名な荒巻淳もおって、ワシは5番ファーストをまかされちょった。そやけどカネにモノをいわせる球団の方針と合わんで、翌年に退団。ちょうどそのタイミングで、プロ野球がセ・リーグとパ・リーグに分裂したんや。すると今度はセ・リーグの西日本パイレーツ(福岡)から声がかかって、昭和25年に入団したんじゃ。

───プロに転向したのですね。

張り切って入団したんやけど、キャンプ中にワシの部屋がマージャン部屋に占領されちからな。それが気に食わんで監督と衝突して、わずか2ヶ月で津久見に帰ったんじゃ。そうこうしよったら別府市役所から「別府の観光宣伝のため野球を強くしたいから協力してほしい」と言われ、別府緑丘高校(現・大分県立芸術緑丘高校)の野球部監督に就任。ここからが高校野球監督人生の始まりじゃな。別府緑丘は硬式野球部が出来たばかりでな、初日に別府球場へ行ったら長髪ん子もおった。今は普通やけど、そん頃は丸坊主がほとんど。「髪を切っち来い!」と叱り飛ばしたのを覚えちょるわい。それでも緑丘は最初から強かったし、いい選手もおった。西鉄(現・埼玉西武)に入った河村英文とかな。その河村の後を継いだのが、あの「神様、仏様、稲尾様」の稲尾和久じゃ。

天職である高校野球監督に転身して
初の甲子園へ

───あの稲尾さんを指導したのですか!

いや、稲尾と出会う前に声がかかったのが、津久見高校の監督じゃ。別府緑丘の監督は就任わずか1年やったし、最初はあまり乗り気やなかったんやけど、校長先生から再三の説得があってな…。生まれ故郷でもあるし、悩みに悩んだ末、津久見を指導することを決心したんや。ワシが30歳の時やった。就任して最初の大会は、春の九州大会大分県予選。これがトントン拍子に勝ち進んでな、決勝戦はあの強豪・大分商業を14-4で破って優勝。津久見が県内の大会で勝ったのは、これが初めてじゃった。そこから鹿児島で開かれた九州大会は初戦で逆転負けしたんやけど、選手にはいい経験になったと思う。

───初っ端から飛ばしましたね。

その勢いで夏の甲子園大会大分県予選。ここでは決勝で大分商業に負けて準優勝じゃったけど、東九州大会の参加権は勝ち取った。あん頃は1県1校が甲子園に行くわけじゃなく、大分・宮崎・鹿児島・沖縄の上位2校による東九州大会で代表校を決めよったんじゃ。ここで決勝まで勝ち進んだ結果、九州の名門・鹿児島商業を相手に打線が爆発。14-3の大差で勝利し、昭和27年夏の甲子園出場を勝ち取ったんじゃ。監督に就任して半年で甲子園の切符を手に入れたけん、津久見ん町は大騒ぎ。別府から甲子園へ行くフェリーの見送りには津久見の漁船までが別府港まで来ちくれ、大漁旗を振って激励してくれたわい。

───ありがたい。

ところがワシらを乗せたそのフェリーに、松山港から乗り込んできたのが松山商業高校じゃ。夏の甲子園に12回も出場している強豪校で、ワシらより何倍もの数の見送り客に愕然としたんじゃな。しかも1回戦の相手が、その松山商業。津久見も初回は2点を取ったけど、あとはボロボロで4-10の大敗。その日の5万人の観戦客と津久見市の人口より多くてな、もう情けねえ気持ちになったわい。甲子園で初勝利を飾ったのは、2度目の出場となった昭和30年の初戦じゃ。相手は前評判の高かった成田高校(千葉)で、10-0と大勝利。この年は3回戦で敗退したんじゃけど、そこから次の甲子園出場校になるまで8年もかかってしもうた。さっき話した飛田さんに手紙で相談したのも、この時期じゃ。津久見高校からプロ第一号になった近藤隆正(巨人に入団)とか、いい選手もおっただけに申し訳なかったのぉ。

───3度目の甲子園は?

昭和38年の夏じゃ。オーバーハンドからアンダーハンドに転向させたエース・高橋直樹(早稲田へ進学後、現・北海道日本ハムの東映へ入団)を中心に、久しぶりの晴れ舞台じゃった。しかし1回戦の中京商業(愛知)を相手に5回までリードしちょったんやが、センターのミスで逆転され3-4で敗退。試合終了後にセンターは泣きじゃくりながらナインに謝りよったが、ワシはミスで選手を責めることはせん。じゃけん、その選手をなだめることに終始しちょった。

高校球児の指導はシンプル・イズ・ベスト

昭和40年代に獲得した楯やトロフィーの数々

───そこから黄金の昭和40年代に入るんですね。

まず昭和40年夏の甲子園は、初めてベスト8まで行ったんじゃ。2回戦ではエースの三浦保雄が、優勝候補の徳島商業「うず潮打線」を5安打に抑え込んで完封。三浦は身長168cm・体重53キロと小柄な選手じゃったけん、甲子園の話題をかっさらったんじゃ。ところが準々決勝では1-13とコテンパンやった。小さな体格で故障が多い三浦を痛々しく思い、こういったピッチャーの育て方はおかしいと猛反省。それ以降は身長180cmを超える投手を起用するようになったんや。ちなみにこの試合終了後、ワシはインタビューをすっぽかしてしもうた(笑)。大敗でバツが悪かったけん、先にバスに戻っちょったんや。ま、結局は連れ戻されてインタビューさせられたがな。

───監督は他にも試合後インタビューで面白エピソードがありますよね。

昭和43年の夏の甲子園で、記者をやりこめたヤツな(笑)。バットを真っ直ぐ立てて構える大田卓司(西鉄へ入団)を、若い記者が「津久見のフォームはみんな違う。決していいフォームじゃない」と言ったことにカチンときたんじゃ。「ワシは技術とか一切知らん。アンタが指導できるんなら、教えちくれんやろうか。そしたらアンタの言うとおりにするけん」と返したら、その記者は逃げていったわい(笑)。ワシは投手も打者もフォームにこだわらん。打撃について言いよったのは、「ボールをよく見ろ」「振り遅れるな」「速いスイングをしろ」の3点だけ。自然のままにしよったら、おのずといいスイングになっちくるもんや。高校生には難しいこと言ってもわからんけん、簡単でシンプルに教えればいいんじゃ。

───大田選手と吉良修一投手(阪神へ入団)は昭和42年、春の選抜初出場、初優勝の時の中心選手ですね!

アレは毎試合、接戦じゃったな。吉良のドロップが効いちょった。あいつのドロップの投げ方は、手の甲を打者に向けて投げる独特のやり方なんじゃ。普通やったら間違いなく肘を痛めるけど、彼は自分のモノにしよった。ワシは余程のことがない限り、本人がいいと思ったやり方を勧める。ところで、この選抜で優勝はしたけど、津久見の打率は2割もいかんかったんや。1試合の最高得点が3点ぽっち。とにかく点がとれんかったから、吉良のピッチングに、おんぶにだっこやったなぁ(苦笑)。

───決勝は高知高校で延長12回の熱戦でした。

ここで思い出すのは、延長11回で津久見が一死三塁の場面になった時。ワシは高知が絶対スクイズをやっちくると踏んじょった。それで吉良に「四球で歩かせてもいいけん警戒しちょけ」と伝えたんやけど、「僕のドロップはスクイズされたことがありません。勝負させてほしい」と言ってきたので、本人にまかせた。結果的にこれが成功して、打者はドロップを空振りしてピンチを切り抜けたんや。さらにこの後の12回表、甲子園で全然打てんかったキャプテンの山口久仁男がホームランを叩き込みやがった。ホント、甲子園は何が起こるかわからんと思ったわ(笑)。

無心で闘い抜いて
勝ち取った「ボタモチ」は格別

───二度目の全国制覇となった、昭和47年・夏の甲子園は、いかがでしたか。

こん時も、どこも楽には勝たせてくれんかった。1回戦の鹿児島商業戦は、なかなか点が入らんでな。9回裏に村越英之が打ったヒットによるサヨナラ勝ちで救われたんじゃ。2回戦の苫小牧工業(南北海道)はすんなり勝ったが、準々決勝の明星高校(大阪)に苦しめられた。ところが、これまたサヨナラ勝ち。準決勝は天理高校(奈良)を5-3で下したんや。

───サヨナラ勝ち続きと、ドラマチックな展開ですね。しかし夏の甲子園は大分大会から長丁場になるのですが、何か特別な練習でもしたのですか。

いや、いつもどおりじゃ。選手の集中力は2、3時間しか続かん。だからいつもそれくらいで練習を終わらせるんじゃ。甲子園でも普段の練習と変えることはなかった。エースの水江正臣(ヤクルトへ入団)に対しても、投げた翌日はいつもどおり200球を投げさせ、野手にも50本ノックのルーティン。練習を半分にすることもなく、食事もいつもと一緒。特別なことをすると調子を崩すけんな。ただし「サインだけは間違えるな」と指示しよった。まぁワシのサインは単純じゃけどな(笑)。

───飛田さんの教えに通ずるものがありますね。

じゃな。決勝の柳井高校(山口)戦は、こっちのヒットが5本で、向こうが倍の10本。それでも3回に内野安打で2点も入った。結局、これが決勝点となり優勝したんじゃ。甲子園に行って、みるみる調子をあげたエースの水江が、よう抑えてくれたわ。会見で「タナからボタモチじゃった」と言ったのを覚えちょる(笑)。

“クソ”根性でマウンドに立った
教え子の頑張りに感服

───ほかにも印象的な試合はありますか。

昭和45年の選抜出場を決めた、昭和44年秋の九州大会かな。こん時はベスト4じゃったが、エースの浜浦徹(ロッテに入団)が、アクシデントに耐えて投げきった。準決勝前に下痢と熱に襲われたんじゃ。

───ええっ、それはマズイじゃないですか!

しかし本人は先発で投げると言い張る。悩んだが、前日の練習でなんとか大丈夫そうやったけん「3回くらいまでなら」と先発で登板させたんじゃ。最初から必死で投げた浜浦じゃったが、1球毎に力を入れて投げるけん、その度にアレが漏れるんじゃな。しかもベンチに戻って来る度に臭くなる。最後はスライディングパンツがビショビショになっちょった。

───うわーっ、根性ありますね。

それでも元気にプレーを続け、ホームランまで打ったんぞ。結局、最後まで交代を譲らんで投げきったのには、たいした男じゃわい。その大会では、優勝した八代東高校(熊本)に敗れてしもうたが、翌年の春の選抜に選ばれたのは彼のおかげじゃと思うちょる。

高校野球は精神修養の場。
これは永遠に不滅じゃ

昭和52年夏の甲子園。試合終了後、京都商業の監督(右)とキャプテン(右から2番目)、そしてインタビューに答えてくれた大津さん(左から2番目)、小嶋監督(左)と。○津久見9-1京都商業●

───壮絶な試合でしたね。野球に限らず、人生を振り返って思い起こすことは?

ワシは大酒飲みじゃった。ま、それが原因で脳梗塞になったんやけどな。実は今なら絶対許されんことじゃが、毎朝の出勤前に一杯、昼飯で一杯、練習へ出かける前に一杯、練習終わりはもっと飲んだ。甲子園でも旅館から出る前にカーッと一杯やって、その酒を口に含んでユニフォームに吹きかけよった。お神酒がわりじゃな(笑)。今だから言うが、試合中のベンチでも、こっそり飲みよった。毎回じゃないが、緊張を解きほぐすためじゃ。ある時、インタビューで「監督は酒臭いですね」と言われた時はヒヤッとしたがな(笑)。

───豪快すぎてコメントできません。最後に今の高校球児たちにひとこと。

高校野球の監督は、ワシの人生そのものであり、天職じゃったと思う。すべての選手たちに感謝したい。そして、みかんとセメントの町だけと思われちょった津久見に、野球というスポーツ文化を加えることに貢献したんじゃねえかと思うちょる。そういえば、こげなことがあった。韓国の野球ファンから手紙を受け取ったんじゃが、宛先に「熊本県津久見市」と書いちょった。よう届いたもんじゃ(笑)。そんだけ津久見の町が知られるようになったんじゃろう。何はともあれ、高校野球は精神修養の場。なんぼ時代が変わっても、それだけは変わらん。高校球児たちは、これからも野球をプレーすることに誇りを持ってほしい。

 OBの証言 

吉近寿一さんの証言

ノックのうまさはピカイチでした

小嶋監督は雲の上の存在でしたね。知名度も高く、良い選手が集まってきてました。まずは投手を作りあげて、しっかり守る。守備と走力に関してはハンパなかったです。練習は2〜3時間で終わらせる集中型。細かいことは一切言わず、個性を伸ばす方針でした。あと、とにかくノックはうまかった。選手が取れるか取れないかのギリギリに打つわけですよ。それで、もうヘトヘトでした。私生活に関しても厳しかった。自分たちは注目される存在だから、普段からピシッとしちょけ、と。「気負わず、焦らず、毎日の積み重ね」。今の球児に何か伝えるとすれば、こう言ったんじゃないでしょうか。

PROFILE

よしちか・ひさかず。昭和29年生まれ、津久見市出身。昭和47年夏の甲子園優勝メンバー。4番、センターでキャプテンを務める。甲子園での打率は375厘3打点。2回戦の苫小牧工(南北海道)戦ではホームランも放つ。

大津裕也さんの証言

選手の心をつかむ天才でした

小練習の最後にダッシュをしますよね。「10本ダッシュいけ」って言われ、3本4本やっていると、「大津もういい、ダッシュ終われ」って。「なんでですか?」って聞くと、「今くらい元気よくやれてればもういい、終われ」と。 みんな大喜びですよ。そういった所のね、選手の気持ちをのせるが上手かったですね。また、当時試合は春日浦球場だったんですね。春日浦球場は外野スタンドは芝生だったんですよ。そこで試合前に大の字になって寝てるんですよ。こっちは緊張しながらアップしているんですが、それを見ると安心感っていうんですかね、監督のそういう姿を見て、自分たちは自信もっていけばいいんだっていう気持ちになりましたね。これも選手の気持ちをほぐす監督ならではの計算だったんですかね。

PROFILE

おおつ・やすなり。昭和34年生まれ、大分市出身。昭和52年夏の甲子園の出場メンバー。2番、サードでキャプテンを務める。小嶋監督の引退後、野球部監督となる。

 

 

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