時代を創るOitan

地域の産業発展に人生を捧げた
バイタリティー溢れる九重の実業家・麻生観八

実業家麻生観八

2022.03/29

 大分県民なら誰もが幼少期から刷り込まれてきたであろう有名なCMソング、「♪や〜つ〜しか〜やつしかのぉ〜、て〜ん〜き〜よ〜ほぉ〜」でお馴染みの八鹿酒造。元々は「舟来屋(ふなこや)」という屋号で創業しましたが、いろいろあって、3代目の麻生観八(かんぱち)さんによって「八鹿酒造」として生まれ変わり、現在に至ります。この観八さんという人物、実は家業の酒造りだけでなく、九重、玖珠の、延いては大分県の産業発展のために尽力し、銅像にまでなった偉人なのです。その数々の偉業について、現在の社長でひ孫に当たる6代目の麻生益直さんにお話を伺いながら、歴史を紐解いていきます。

▲麻生観八
▲麻生益直さん。八鹿酒造は、日本酒「八鹿」や麦焼酎「銀座のすずめ」などで有名です

「話が違うじゃん!」な養子入り
しかし、5年で再興は天賦の才か

 観八さんは元治2年(1865年)、代々酒造業を営む日田の裕福な商家草野家の五男として生まれました。しかし12歳の時に父親の相場の失敗から実家が傾き、酒屋廃業の憂き目に遭います。なかなかの貧しい暮らしを強いられた観八少年は、「大人になったら、絶対僕が酒屋を再興してやる!」という熱い思いを胸に、叔母の嫁ぎ先で、同じく酒造業を営む九重の麻生家に15歳で養子入りします。ところがこの麻生家も、初代・麻生東江(とうこう)・2代目豊助親子が水路開削のために財産を突っ込むも、天災や百姓一揆などに阻まれ資金が枯渇し、なんと家業の酒造権利まで手放すほどの傾きっぷりだったのです。

 ということで、養子入り早々、麻生家の家業再建に乗り出すこととなった観八さん。右田村役場や東飯田小学校などで働きながら資金を貯め、明治18年20歳の時に、当時の酒造免許の最下限であった百石(一升瓶1万本)をもって見事「八鹿酒造」として再興を果たしました。

▲八鹿酒造に飾られた、本物の酒類製造営業免許鑑札

スクラップ&ビルドまで!
麻生家末代にも関連する公共事業の数々

 「観八じいさんが手掛けた事業は、どれも重要なものばかり。まだ何もない時代だったので、やる事なす事、全て世の中に必要だったんだよね」と益直さん。家業を立て直し、商売を軌道に乗せた観八さんは、次は「世のため人のため」と公共事業に注力します。まずは、祖父や父が未完で遺した右田井路の事業に着手し、祖父の代からおよそ50年後の明治40年に、全長14kmの開削工事が完了しました。水路のおかげで、長い間干ばつに悩まされていた地域が豊富な水量に恵まれた農業地帯となり、そんな豊かな自然の中で清酒「八鹿」も育まれました。

▲蔵に貼られた右田井路の位置図。ピンク色の部分が井路によって潤された田畑です

 ほかにも、「玖珠郡の発展には実業教育と女子教育が不可欠だ」と考え、玖珠郡立の実業高校と森高等女学校の設立を推進しました。特に女学校について、益直さんは「観八じいさんの息子である、私の祖父・益良(ますよし)には子どもが6人いるんだけど、本当は9人で、親父の太一が唯一生き残った息子。あと5人は全部娘で。だから女学校を作ったんじゃないかって僕は思う」。観八さんは「男子校は黙っていても国が作るけど、女学校は働きかけないとできない」と言っていたそうです。「森高等女学校は大分県で2番目にできたんだけど、(玖珠に)そんなに早く女学校ができるはずがない。方法はわからないけど、観八じいさんの働きかけが影響したんじゃないかな」とも推測しています。

 ちなみに益直さんは約10年前には大分県教育委員会にいらっしゃったそうで、かつて森高等女学校だった森高等学校と、同じく実業高校だった玖珠農業高等学校を合併して玖珠美山高等学校にしたのは、何を隠そう当時教育委員長だった益直さん本人だとか。「曰く因縁でさぁ、曾祖父さんが作った学校を閉校させたのが俺ということになる(笑)。曾祖父さんの実績があったから、統合に反対する人たちに納得してもらえたのかも」。

 そして、手がけた数々の公共事業の中で最大とも言えるのが鉄道敷設です。「今でこそ大分と久留米を結ぶから『久大本線』だとわかりますが、当時は久留米から日田まで、大分から湯平までしかつながっていませんでした。これをつなげたのも観八じいさんです」。山々に囲まれ交通が不便だったこの地域が、世の中の進歩から取り残されないようにと、大正10年に鉄道敷設を働きかけました。紆余曲折ありましたが、昭和4年には悲願の国鉄久大線の引治、恵良、森の各駅が開通。しかし、その待ちに待った開通を見ることなく、昭和3年、観八さんは63歳で亡くなってしまいました。ちなみに、大分・久留米間が全線開通したのは、それからさらに6年後の昭和9年のことでした。

▲造り酒屋をイメージして造られたJR恵良駅。観八翁の功績を讃えた資料館を併設しています
▲「観八翁村葬」と書かれた、葬式の様子を伝える新聞記事。その人出の多さに、どれだけの影響力を持っていた人なのかが窺えます

功績を讃え、銅像を建立
今もなお続く「銅像祭」

 これら数々の功績を讃え、亡くなった翌年の昭和4年、恵良駅にほど近い松岡公園に観八翁銅像が建てられました。手掛けたのは大分が誇る彫刻界の巨匠、朝倉文夫です。土台含め全長8mある大きな銅像ですが、昭和20年太平洋戦争の時に醵出(きょしゅつ)され、姿を消していました。しかし、朝倉文夫のアトリエに当時の銅像の型が残っていたそうで、昭和24年に亡くなった4代目・益良さんの胸像建立と合わせ、昭和28年に再建されました。今でも毎年5月10日には「銅像祭」が開催されていますが、なぜ5月10日なのかについてはわからないと益直さん。「親父も知らないようで、季節が良かったんじゃないか?って言ってました。ちなみに当日は神事や餅まきをして…直会(なおらい)です。みんなで楽しく飲むだけ(笑)」。造り酒屋の祖先を偲ぶにふさわしいエピソードです。

▲麻生観八像

おわりに

 家業の再興だけでなく、地域の産業発展のために数々の公共事業を手掛けた観八さん。先代たちの悲願であった水路も完成させましたが、元々先代たちも、水利の悪かった九重の地域住民を飢えから救うために計画した事業でした。親子に直接的な血のつながりはありませんが、世のため人のための精神は、麻生家に脈々と伝わるものなのだと感じました。JR恵良駅の資料館には当時の資料が数多く展示してありますので、ぜひ一度降り立って、その歴史や偉業を感じ取ってみてください。

▲当時の酒造りの道具や年表、九州最古と言われる舟来屋時代の鏝絵(こてえ)などを展示した先哲資料館

麻生観八プロフィール

1865年1月10日生まれ。大分県玖珠郡の造り酒屋麻生家の養子となり酒造業を再興。銘酒「八鹿」を生む。「八鹿」の名は、麻生観八氏の「八」と、杜氏だった仲摩鹿太郎の「鹿」の漢字を組み合わせて名付けられた。九州水力電気の創立に参画し、JR久大線の開通促進や飯田高原の植林、地域教育振興などに努めた。

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