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3000の島津兵を撃退!?
最強女城主のサクセスストーリー

妙林尼

2022.03/24

ときは戦国時代初頭、九州最大の勢力を誇った大友家が絶体絶命の危機を迎えようとしていた-。
島津3000人の兵を前に、大友宗麟の重臣・吉岡家の居城である鶴崎城に立て篭もる1人の女武将。彼女の他に城に残されたのは老兵に女性、子どもばかり…。そんな状況下でも彼女は降伏を拒絶し、選んだ道はまさかの徹底抗戦。彼女を突き動かしたのは亡き家族や、激動の時代を生きる大切な人々への想いでした。

「島津にだけは城はやらぬ! 大友最後の意地ぞ!!」

自らの使命と復讐に燃える彼女は、運命の時を迎えようとする小さな城で歴史に残る抵抗戦を展開してゆくが…。

…はいッッ!カーーット!!! ここまで読んでくれたアナタ、今もしかして頭の中に大河ドラマのワンシーンが流れていませんか? 今回の主役は、尼という身でありながら数々の作戦で敵を欺き、九州制覇を目論む島津軍を震え上がらせた女性、吉岡妙林尼(みょうりんに)。
生没年さえ不明という謎に包まれた彼女の魅力を、今回は地域の歴史的文化や芸術、史跡を発掘、探求し継承することを目的に活動するNPO法人「鶴崎文化研究会」理事長の野村廣幸さんと共に紐解いていきます。

最強女武将の生い立ちは謎だらけ!?

妙林尼の生き様に触れるべく足を運んだのは、大分市鶴崎にある「毛利空桑記念館」(詳細は後ほどコラムにて)。こちらの記念館の運営・維持をしているのが、野村さんが所属する「鶴崎文化研究会」なのだそう。
「妙林尼のことで良かったですよね?」と、穏やかなトーンで迎えてくれた野村さんですが、席に着いた瞬間「彼女は現代の女性活躍社会の原点とも言える人。私は日本のジャンヌ・ダルクだと思いますね!」とヒートアップ。
「歴史上、領主が戦いに出た後の留守宅(城)を守った女性は何人かいますよ。でも敵陣と戦い、城を守り抜いた女性は妙林尼だけですから!」。
熱いトークが止まらない野村さん。ではでは、早速質問させてもらいましょう〜。

▲「鶴崎文化研究会」の野村さん(83歳)。夢は鶴崎で「妙林尼祭り」を開催すること。「全国の歴女(れきじょ)に来てもらって、妙林行列ができたら最高ですよ」

―妙林尼の生い立ちについてわかっていることは?

 謎です。

―幼少時代のエピソードとか…。

 謎ですね。

―どのような結婚生活を送っていたのでしょうか?

 それも謎ですね。

―戦いの後、晩年はどのように過ごしたと想像されますか?

 うーん、謎ですねぇ。

-完-

上記のやりとりで、いかに謎多き女性かわかっていただけたでしょうか(遠い目)。
妙林尼が歴史の表舞台に登場したのは天正14年。その時代は織田信長の亡き後、豊臣秀吉が天下統一の夢を着実に実現しているとき。けれどそうした情勢とは別に、九州では大友と島津が長い戦いを繰り広げていました。天正6年、九州の運命を左右する「耳川の決戦」で大友は敗北。一族が衰退の道を辿る中、立ち上がったのが妙林尼でした。なぜかというと、彼女の嫁ぎ先が大友氏を長年にわたって支えてきた吉岡家だったから。

しかし野村さん曰く、「その夫が誰だったのか?」という点においてもまだまだ議論が続いていて、有力とされているのは大友家の忠臣と誉れ高き“豊後三老”の1人で、一族の政治の中心人物として活躍した吉岡長増(宗歓)(ながます)の後妻であるという説。もしくはその息子・鑑興(あけおき)の正室であったという2パターンがあるそう。

野村さん個人としては、鑑興の正室だったという説が正しいのでは?と感じているようです。なぜなら、妙林尼が長増の後妻だった場合、天正14年の戦いの時点で彼女の推定年齢は60歳前後。格上の敵陣と戦い抜いた妙林尼のアグレッシブな姿勢には、若さゆえの勢いが感じられると言います。た、確かに…!!
けれど、このような推測は多くの歴史家や小説家がそれぞれ唱えているものの、どれも確信を突いたものはないそうです。資料が一切残されていないから当然か…。
うーん。それにしても夫まで不明だったなんて!
そりゃあ結婚生活なんて分かるはずがないですよね(涙)。

それでも天正14〜15年にかけて、彼女が見事な采配で島津軍を撃退したという武勇伝は事実。
つまり、彼女の名が現代まで語り継がれている理由は、その生い立ちがすごいとか、物凄く人柄が強烈だったとかそういうことではなく、耳川の戦いで命を落とした夫(あるいは息子)の死後、息子(あるいは孫)が城主を務める鶴崎城が島津軍に攻められた際、老兵や女性、農民数百人を率いて籠城戦を展開したという歴史上とても短い期間の事実だけだったのです。

▲取材場所となった「毛利空桑記念館」。館内には空桑にまつわる様々な歴史資料が揃う

大友家、そして妙林尼の運命を分けた「耳川の戦い」とは

妙林尼の人生を大きく揺るがした出来事が、大友×島津による対戦「耳川の戦い」です。決戦の地は現在の宮崎県中央部にあたり、九州で大勢力を誇っていた大友と島津が激しくぶつかり合いました。

そもそも当時の九州は大友のほか、薩摩の島津、肥前国を中心に勢力を誇った龍造寺の3派で覇権を競っていたのですが、耳川の戦いが起きたきっかけは宮崎県の伊東氏が大友家に助けを求めたことから。当時の伊東家は島津に領地の大半を奪われるという危機的な状況にあり、領地奪還のために行動を起こしたわけです。
この願いを宗麟は快諾。この決断の裏で、宗麟が日向国にキリスト教の理想国を築こうと計画していたという驚くべき説もあるとかないとか…(※諸説あり)。

そして多くの人々の思惑が渦巻く中、日向国のほぼ全ての領地を手中に収めた島津に対して警戒を強めた宗麟は、天正6年に多くの軍勢を率いて出陣。
数を有した大友軍は序盤で勢いをみせるも、島津の戦略にかかり大敗してしまいます。この争いを機に大友氏の勢力は衰えていくのですが、この戦いで亡くなった兵の中には妙林尼の夫もしくは息子とされる鎮興も含まれていました。
愛する人の死を知った妙林尼は剃髪をし、尼になったと言います。

うーん。この時代を生きる女性の宿命なのかもしれませんが、戦で愛する人が命を落としてしまうなんて悲しすぎますよね…。
争いがなければ続いていた命。悔しすぎるし、女として気持ちのやり場がなくないですか??? もちろん一族としてのプライドや忠誠心はあったと思うけど、けど、けど、けどーー!!妙林尼―――――(涙)。

そして野村さんが想像するに、彼女は悲しみに暮れながらも、このときから「いつか島津は鶴崎城にも攻めてくる」と予期していたのではないかと。城主の妻として、戦う夫のそばでずっと彼女なりに様々なケースを考えていたのではないかと野村さんは推測します。

▲「鶴崎文化研究会」の皆さんの愛の深さが伺える“妙林尼ちゃん”人形を館内で発見。まさかの販売もしていて、在庫は残りわずか!

どんな時も諦めない、最強の女城主誕生!

突然の家族との別れからときは流れ、時代は天正14年。
耳川の戦いに勝利して勢いを増す島津は、着々と豊後に兵を進めていきます。これに危機感を抱いた宗麟は、大坂まで出向いて豊臣秀吉と面会。宗麟の願いを秀吉は了承し、豊後に部隊を出陣させます。しかし、豊臣軍勢であっても当時の島津には力及ばず…。領地を奪われた宗麟は、丹生島城(にゅうじまじょう※臼杵城)に籠城して抗戦することを決断しました。

当時、鶴崎城主であった妙林尼の息子(または孫)の吉岡統増(むねます)も、主力部隊を率いて丹生島城に出向いてしまいます。そのため鶴崎城に残ったのは、妙林尼の他、老兵と女性、子どもだけ…。

けれどそんな状況下でも時の流れは止まらず、伊集院美作守久宣(いじゅういんみまさかのかみひさのぶ)、野村備中守文綱(のむらびっちゅうのかみふみつな)、白浜周防守重政(しらはますおうのかみしげまさ)の3将が率いる島津3000人もの軍が鶴崎城へ!
こんな状況下で敵軍が攻めてきたら、普通は降参しますよね。どう考えても勝ち目はないわけだし…。けれど妙林尼は籠城で抗戦することを決意! 圧倒的な力を誇る島津軍に一歩も譲る気はありませんでした。

とはいえ、大砲を備えた“鉄壁の城”とも言える丹生島城に比べ、鶴崎城は館のような小城…。当然、残された老兵達に正気はなく、先の見えた戦いに誰1人として希望を見出す人はいなかったことでしょう。けれどそんな兵達を妙林尼は叱咤。物見の知らせで島津軍の動きを知るや、すぐに戦いの準備に取り掛かります。
鶴崎城の東西には大野川と乙津川が流れているため、それらが外堀の役割をしてくれる。さらに城の北側は海であることから背後の心配は不要。南口の防備だけを固めれば良い…。

不利な状況にあっても、自らの置かれた環境に勝てるポイントを見出し、限られた人数で効率良く動く。妙林尼は自らも先頭に立って堀を深くしたり、新たに二の丸、三の丸の外郭を築いたりして、徐々に周囲の信頼を得ていきます。「このように迅速かつ具体的に妙林尼が戦いの準備をできたのは、彼女が昔から数々の予想をしていたからではないでしょうか。いつの日か自分が城主となって戦う可能性も考えていたかもしれません。それにしても物凄く賢い女性ですよ、妙林尼は!!!」と野村さん。

このようなエピソードから、妙林尼の実家は武家だったのでは?との推測もされるようですが、生い立ちについては全くの不明のため悪しからず。

ちなみに吉岡長増によって築かれた鶴崎城は築年代が不明。鶴崎城があったとされる場所も野村さん曰く諸説あるとのことですが、大分県の見解としては、大分市立鶴崎小学校と大分県立鶴崎高等学校一帯が鶴崎城跡であるとのことです。

ですが、小学校の校庭の片隅に記念碑が置かれている以外、当時を偲ぶものは残されていません。(※校内への無断立ち入りは禁止されています)

▲小学校の東門を少し入った場所に設置された、鶴崎地区の歴史を記した看板。江戸時代に入ると鶴崎城跡は改修され、お茶屋(宿泊所)として機能していたそう

妙林尼の作戦、ここがすごい!

農民に板や畳を持ち寄らせ、城の周りに堀を建てて砦を造るよう指示をしたと言われる妙林尼。その堀自体は決して頑丈なものではありませんでしたが、妙林尼が重点を置いていたのは堀の強弱ではありません。

妙林尼の戦略のポイントは、堀に巡らせた柵と柵の間に造った落とし穴。
さらにありったけの鉄砲を城に集め、妙林尼自ら農民達に射撃の方法を伝授しました。

するとどうでしょう。

尼が大将の城だと警戒なくやってきた島津軍は、瞬く間に柵を破壊して堀を越えようと突っ込んできました。しかし、島津軍は馬もろともあちこちに隠された落とし穴へ。当然、敵陣は大混乱に陥ります。この好機を逃すまいと、妙林尼は農民らに合図! 普通なら勝ち目のない相手でも、この状況なら勝利することができます。やっとの思いで島津軍は後退するも、このまま島津軍が引き下がるわけもなく、なんと妙林尼VS島津の争いは3カ月間・計16回にわたって繰り広げられました。

最初は妙林尼を信じていなかった人々も徐々に彼女を城主であると認め、いつの間にか心は一つに。実は妙林尼は“良妻賢母”とも伝えられているのですが、彼女のそんな人柄はこの戦いにも見ることができるのかもしれません。残された老兵や女性達は、妙林尼の城主としての素質だけではなく、彼女が妻として母としていかに生きてきたかを知っていたからこそ、最後まで一緒に戦う道を選べたのではないでしょうか。

そしてついに鶴崎城の矢弾や食料が付き、降伏する日がやってきます。島津軍から降伏を勧められた妙林尼は、潔く鶴崎城を明け渡したとか。しかし妙林尼の闘志はまだ燃え尽きておらず、長い戦いの中で不思議な絆さえ芽生えていた島津との関わりは降伏後も続いていたそう。鶴崎城を退いた妙林尼は本来なら城主として命を落としても仕方のない立場でしたが、彼女には島津から城下の家を提供されていたというのです。
妙林尼ファンとしては嬉しいけど、そんなのアリ!?って感じですよね(驚)。
そこに島津の兵を招き、御馳走を振る舞い、美しく若い女性に酌をさせる…。
これまでの妙林尼の姿とはガラリと変わった女性らしい振る舞いに、伊集院と野村、白浜の3将は次第に心を許していきます。しかも妙林尼は、元々すごい美貌の持ち主として有名だったみたいです!

天正15年の3月、豊臣秀吉から再度の九州討伐の知らせが届いたため、島津全軍に退却の命が下ります。もちろん鶴崎城に駐留していた島津軍も引き揚げることになるのですが、妙林尼はその際「私達も薩摩に連れて行ってほしい」と島津の3将に頼み込んだとか。理由は、島津軍と親しくなったことによる大友家への裏切り…。もちろん妙林尼によるこの提案は、「自分は捕虜として扱われていない、彼らに好意を寄せられている」という自覚あってのことと言われています。

この願いを快諾した3将は喜んで妙林尼らを連れ帰る準備を進めるのですが、いざ出発の日。
妙林尼と女達は新たな門出のお祝いと称し、3将達に酒を振る舞います。酒に酔ったところで3将を送り出すと、以前から示し合わせていた手兵に襲撃を命令。大将の伊集院と白浜はその場で討死、野村も致命傷を負い、薩摩へ帰る途中の海上で命を落とました。妙林尼がその日討ち取った島津兵の首は、なんと63…!
妙林尼はすぐさまその首を、宗麟のいる臼杵城に届けたと言われています。
けれどこの戦法については賛否あり、中には「女の色気を使った」など批判的な声もあるそう。しかし野村さんは「妙林尼を否定するなんてとんでもない!」と彼女を絶賛します。「命をかけた戦いだった上に、多勢に無勢という困難な状況だったんだから、どんな手だって使うほかにないでしょう。そもそもこの手法だって相当な知恵がいること。妙林尼はとても素晴らしい女性だと思いますね」。

そして妙林尼について残された記録はここで終了。 彼女の活躍を知った秀吉が「ぜひ会いたい!恩賞を取らせたい!」と伝えるも、妙林尼は固辞したそうです。その後の消息は一切不明…。
最後に「野村さんならどう想像しますか?」と訊ねてみましたが、「こればかりは何とも…。想像しようにも資料がありませんから。ただただ、妙林尼が美しく聡明な女性で、現代のヒロインにもなりうる女性ということですよね!」と語ってくれました。

▲「鶴崎の守護神」として讃えられる妙林尼の像は国道197号沿い、大分市中鶴崎の鶴崎校区公民館の前に建つ

おわりに

妙林尼は一体どのような晩年を過ごしたのでしょうか? 長年肩に背負ってきた荷物をようやく下ろすことができた彼女が、心穏やかに過ごせたことを祈ります。そして取材を終えた今だからこそ、野村さんの言っていた“日本のジャンヌ・ダルク”という意味がわかりました!これを読んだ皆さん、「ジャンヌ・ダルクは知っているけど、妙林尼なんて知らない」なんて言わせませんよ?

【ミニコラム】
鶴崎にゆかりのある偉人を訪ねよう!毛利空桑記念館

幕末から明治初期にかけて活躍した鶴崎出身の儒学・教育者である毛利空桑の記念館。空桑の文献や遺品類、史料が展示・収蔵されている記念館の隣には、旧宅である「天勝堂」や私塾「知来館」があります。鶴崎地区の歴史にまつわるパンフレットや資料もあるので、気軽に立ち寄ってみてください。

(住所) 大分市鶴崎381-1
(電話) 097-521-4893
(営業)9:00〜17:00 (料金)無料
(休み)月曜※祝日の場合は営業、翌日休み
(アクセス)JR鶴崎駅から徒歩20分

◎妙林尼にまつわる書籍紹介
妙麟 (みょうりん)/赤神諒

「妙林尼をもっと多くの人々にPRしたい!」と考える鶴崎文化研究会が、「大友サーガ」をはじめとする歴史小説の執筆で知られる小説家・赤神諒氏に執筆を依頼(!)。2019年に誕生した一冊は「毛利空桑記念館」のほか、各種ネットでも購入できます。謎多き妙林尼の女性の部分にもクローズアップした戦国ラブストーリーに仕上がっています。

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