「私は玄白に言ったんですよ。
『解体新書』出すの、まだ早いって」
中津藩医・蘭学者前野良沢


中津藩医で蘭学者だった前野良沢は、長崎遊学で手に入れた西洋医学書「ターヘル・アナトミア」に感銘を受け、杉田玄白らと翻訳し『解体新書』を出版します。しかし、発行当時、脚光を浴びたのは杉田玄白だけ。医学会のみならず、日本文化にも大きな影響を与えた『解体新書』の出版に大きく貢献した前野良沢ですが、本書には名前すら記載されていません。そこには、良沢の譲れない思いが…。
「和蘭(おらんだ)人の化物(ばけもの)」と称された生涯の探求者・前野良沢。自伝などは残っておらず、親しい人が記した書物でしか人物像がわからない彼に、妄想インタビューをしてみました!

藩医から蘭学者の道へ
蘭学の化物・前野良沢とは
―初めまして。今日はよろしくお願いします。それでは、簡単な自己紹介からお願いします。
はい。前野良沢と申します。中津の藩医(藩に仕えた医者)で、蘭学者であります。1723年(享保8年)に福岡藩の江戸屋敷に務める父親の元、江戸で生まれたと記憶します。父は早くに亡くなり、その後は他藩の藩医を務めていた、少し風変わりな叔父に育てられました。叔父の後を継ぎ藩医になったのですが、縁があって中津藩の医者として仕えました。その間、長崎遊学に行かせてもらえる好機があり、そこでオランダ語に出会い、その魅力に取り憑かれました。途中、玄白らと『解体新書』を出版するのですが…また後で話しますが、正直そこへの執着はあまりなかったというか…。藩医として仕えながら、81歳までオランダ語の研究に没頭しました。ざっくりですが、こんな感じですかね(ちょっと照れながら)。

―すごい経歴ですね。良沢さんが医者(藩医)を目指したのはやはり叔父さんの影響が大きいですか?
そうですね。叔父は、淀藩の藩医をしていた宮田全沢(みやたぜんたく)というとても博学な人でした。優れた医者でしたが、天性奇人なんて言われる、変わった人でもありました。勉強以外のことでは、小さい頃から「世の中から廃れそうな芸能を習い、次世代に受け継げるよう守ることも大事だ。それも世の中のためになる」と言い聞かされていたので、尺八よりも少し短い管楽器を晩年まで吹いていましたよ。それは生涯を通じて私の大切な趣味になりました。玄白らには、この趣味は理解し難かったようですが…。そんな少し変わった趣味も楽しめたのは、自由な発想を持った叔父の影響が大いにあったと思います。
―中津の藩医になった経緯は?
私が18歳の時、代々中津藩医を務めていた前野家の当主で私の叔父に当たる東庵さんが亡くなってしまい、まだ子どもだった東元(とうげん)さんが後を継いだんです。ですが、東元さんも26歳で亡くなってしまって…。その後継ぎがいなかったので、私に白羽の矢が立ったんです。
―なぜ医者の仕事をしながら、蘭学者を目指すことに?
40代前半の頃、サツマイモの研究をして食糧危機から人々を救ったと言われている「甘藷(かんしょ)先生」こと、青木昆陽(あおきこんよう)さんに出会ったのが契機ですかね。彼は幕府の役人で若い頃から蘭書やオランダ語に興味を持っていて、オランダ文字について質問するために、江戸参府のオランダ人との対談を願い出て許可をもらったような人なんですよ。来日したオランダ商館長らが江戸を訪れた際に滞在していた宿「長崎屋」に足しげく通ってオランダ語を習得したようです。私は、以前から昆陽さんの著作でオランダ語を勉強していたんですが、30代後半から40代初めでやっと昆陽さんに入門でき、その初歩を学びました。
また、当時の日本は鎖国体制を取っていて、海外貿易は長崎の出島のみ。そのため、長崎は多くのオランダ人が働いていました。当時私は藩医という役得で、藩主の参勤交代に同行し中津へ行った時に、中津から長崎出張に行かせてもらう機会がありまして。記憶が定かではないのですが、長崎に行ったのは1769年(明和6年)の11月ごろから半年間くらいだったかと…。すみません私事なのに覚えていなくて。どちらにしても、長崎へ行ったのは40代後半くらいだったと思います。長崎遊学をきっかけに本格的に蘭学者を目指すことになったんです。

―いろんな方との出会いが、良沢さんを蘭学者へと導いたんですね
そうですね。長崎遊学の際に出会ったオランダ通詞の吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)さんと、楢林栄左衛門(ならばやしえいざえもん)さんは、師として私にオランダ語を教えてくれました。他にもいろんな通詞の方の語学力を積極的に学び取ろうと努力しましたね。
―噂に聞くと、当時は同僚の藩医たちの反感を買っていたとか?
いや、まぁそうでしょうね(汗)。私は人付き合いも下手で、家に篭ってオランダ語の勉強ばかりしていたので、医者の仕事を怠りがちだったのも事実。同業者からは「怠慢だ!」と告げ口されることもありました。しかし、当時の中津藩主・奥平昌鹿(おくだいらまさか)様は、学問や文学を重んじる方で、私のオランダ語にかける熱い想いをとても理解してくれていました。だから、長崎遊学を公用で認めてくれたんだと思います。昌鹿氏は「毎日の医者の仕事も立派だが、いつか人々の役に立つことをしようとするのも立派な仕事。彼の好きなようにさせておくがよい」と言ってくれました。昌鹿氏は私よりかなり年下でした。残念なことに、私が58歳の頃、37歳という若さで亡くなってしまいましたが、部下の気持ちをとても理解してくれる上司でした。私の才能を伸ばしてくれた恩人で、今でも感謝しています。
1日数ページを自分1人で!?
気が遠くなる翻訳作業に取り組んだのにっ!!
―『ターへル・アナトミア』との出会について教えてください。
長崎では、藩の公費で多くの蘭書を買っていただきました。高額ですので本当にありがたかったです。医学書や辞書など数冊を手に入れ、その中に『ターへル・アナトミア』がありました。江戸に戻り、私が長崎での収穫を整理していた時、時を同じくして玄白も『ターへル・アナトミア』を手に入れたそうです。
―かなりの衝撃だったと聞きましたが…
『ターへル・アナトミア』は人体解剖表とでも言いましょうか…。人体各部の図と名称、説明が書かれている医学書です。それまで、人間の体内は「五臓六腑図」で示されていましたから、臓器がとても少なく書かれていたんです。『ターへル・アナトミア』では、それとはまったく異なる、細かい臓器がたくさん図で示されていたので、とても衝撃的でしたね。「え?本当に?」と、半信半疑でした。

―それが確信に変わる出来事があったようですね
藩医同士のつながりで以前から知っていた玄白から、腑分(ふわけ)…今で言う人体解剖ですね、それに立ち会える機会があるから江戸の骨ケ原に来い!と連絡があり、翌日朝早く、すぐに飛んで行きました。死刑囚の解剖だったのですが、私はそれまでに『ターへル・アナトミア』を読んでいたので、すぐにそれが正しかったのだとわかりました。伝統的な五臓六腑説は間違いだったと…。立ち会ったのは玄白を含め3人。みんな藩医だったでしょうか。医者でありながら、本当の人体の構造も知らなかったと恥ずかしく思い、同時に、『ターへル・アナトミア』を翻訳して日本の医学に役立てたいという思いに駆られました。
―それで、『ターへル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を作ろうということになったんですね
翌日から早速、私の家で翻訳作業が始まりました。私を統率者として1カ月に6、7日集まって、全て訳し終わるのに約2年かかりましたね。本文は249ぺージなので1日1~2ページの進み具合です。そのくらいなら楽勝!って思うでしょ? でも、オランダ語が理解できるのは私ひとり。日本語とオランダ語の辞書もない。途中で長女を亡くしても、悲しみにくれる間もなく作業を進めました。本当に大変でした。まず私が音読をし、他の人がそれをカタカナで書き取り、それを私が蘭仏辞書を引いて意味を考え、訳語を当てていくのです。気の遠くなる作業です。その後、訳文を玄白が文章として整えてくれていました。
―そして約3年の長い年月をかけて、やっと『解体新書』を出版することになるんですね!
1774年(安永3年)に、本文4冊、図1冊で出版にこぎつけました。

―でも、本の中には、良沢さんの名前が訳者として出てないんですよね。良沢さんなくしては『解体新書』は完成しなかったのに…
『ターへル・アナトミア』は、難解な医学用語がたくさんあり、抽象的でわかりにくい表現は、私たち医者の知識を駆使して議論したり想像したりして、日本語に訳している部分もありました。でもその知識を持ってもどうしても訳せない部分は飛ばしていますし、ところどころ誤訳もあります。完璧ではないものを世に出すことに私はどうしても納得いかなかったんです。玄白は西洋の知識をいち早く広めたいということを優先しましたが、私はいかんせん完璧主義者なので、不完全な翻訳本を出版するのはどうかと…まだ早すぎるのでは?と思っていましたからね。名声には一切の興味もないし、そこへのこだわりも全くないんです。医師というよりも、研究者に近い感覚だったのかな。だから、この翻訳も研究の一つに過ぎない感覚です。「追求する意欲の塊」である私にとっては、名前を掲載されて名声を得ることになんの価値も見出せなかった。今考えてみれば、玄白は「プロデューサー」、私はそれを支える「技術者」のような立ち位置だったのかなと思いますね。
オランダ語に出会い、極めた人生。
後に福沢諭吉が才能を評価。
―『解体新書』のその後は、どう過ごしたんですか?
解体新書は大きな反響を呼び、聞くところによると玄白は医者としてとても忙しくなったようですね。私は、その後も多くの本を翻訳・執筆しました。それらは全て依頼された仕事です。地球や天体に関するものから西洋画の説明文、ロシアやフランスなどのヨーロッパ地誌の翻訳もしましたね。幅広いジャンルでした。その後、私が58歳の時に一番弟子となる大槻玄沢(おおつきげんたく)が入門してきて、オランダ語を教えました。67歳では生涯の友となる高山彦九郎(たかやまひこくろう)とも出会い、家族ぐるみで一緒に歌を詠んだり、夜遅くまで酒を飲みながら蘭書や天文の話をしました。唯一、腹を割ってなんでも話せる友だったかな。68歳で隠居し、息子の良庵(りょうあん)に後を継がせたのですが、翌年息子は亡くなってしまい、悲しみに打ちひしがれました。その後は養子を迎えました。
―81歳までの晩年はどう過ごしたんですか?
71歳の時に愛弟子の江馬蘭斎(えまらんさい)が入門してきました。蘭斎は志の高い男で、47歳と年を取っていることを気にしていました。でも志を立てた年齢は私と同じ。「何歳になっても学ぶ姿勢は大切で、年齢は関係ない」と伝えました。蘭斎は最後まで私に尽くしてくれました。81歳で私はこの世を去りますが、自分の人生を思い返せば、オランダ語に出会い、オランダ語を極め、最後まで翻訳の仕事ができ、死ぬまで好きなことを貫き通せた幸せな人生でした。私がオランダ語に没頭する一方で、娘、息子を亡くし、妻にはとても不憫な思いをさせたと思っています。それでもずっと支えてくれて、感謝してもしきれません。
―良沢さんが亡くなった後、福澤諭吉さんが出版した『蘭学事始』によって、良沢さんの才能が再評価されましたね。本当に良かった!
前にも言いましたが、私は名声に興味はないので(苦笑)。でも嬉しいことですね。玄白が蘭学の始まった頃を振り返って思い出をまとめ、それに弟子の大槻玄沢が手を加えたものでした。これが本となり、様々な題名で写本として広まっていきました。それを読み、感動した福澤諭吉さんが資金を出して明治2年に『蘭学事始』として出版してくれたんです。同じ中津藩出身だった諭吉さんは、私への想いも強かったと聞きました。この本によって、私という存在を知ってもらえたことは、素直にとても嬉しいです。
空の上から見ていても、現代社会の中では「皆と違うこと」をよく思わず、排除する傾向にあるように感じます。ですが、周りに惑わされず、自分の生きる道を信じてください。私は、「天然の奇士」だの「和蘭(おらんだ)人の化物」だの、色々言われましたけど(笑)、これからは個性の時代。〝自分を持つことの大切さ〟が、もっと求められてくるはずですから。

【ミニコラム】
前野良沢を学ぶなら…中津市立小幡記念図書館へ!
前野良沢と杉田玄白を主人公にしたドラマ「風雲児たち〜蘭学革命(れぼりゅうし)篇〜」(平成30年正月)の放送を記念し、中津市立図書館の郷土資料コーナーに、「前野良沢コーナー」が設置されました。前野良沢や『解体新書』に関する書籍をはじめ、中津の蘭学や医学に関する書籍などが展示されています。中でも、ドラマの原作マンガは、登場人物がコミカルにデフォルメされて描かれ、楽しく前野良沢について学ぶことができるのでオススメですよ!
中津市立小幡記念図書館 電話:0979-22-0679
参考資料/『大分県先哲叢書 前野良沢(普及版)』
取材協力/大分県先哲史料館