「天体に魅せられた大分の少年が月面に名前を刻んだ話」


麻田剛立って・・・?
2020年4月に「大分県に宇宙港ができる!」というニュースが報じられました。「宇宙旅行が大分から!?」(https://minnade.oita.jp/oitan/vol05/)
県内だけでなく日本中で宇宙への関心が高まり始めましたが、今から約250年前、江戸時代にある天文学者がいたことをご存知でしょうか?
現在の大分県杵築市で生まれたその男の名は「麻田剛立(あさだごうりゅう)」。
大分県内でもあまり知られていませんが、この人物・・・
「天文学のパイオニア」と言っても過言ではありません。
- 5歳で、太陽と影が連動していることを発見する
- 11歳の時、天体観測に熱中しすぎて母から観測を禁じられる
- 16歳になると、幕府の暦にない日食の正確な日時を当てる
- 44歳の頃には、日本史上で初めて「月面観測図」を描く
- 55歳の頃、日本初の天文学の塾を開く
- 孫弟子が「伊能忠敬」
- ケプラーの第三法則を独自に発見
- 月に「アサダ・クレーター」なるクレーターがある(1976年に国際天文学連合が承認)
あれれ、多すぎて簡単にいきませんでした・・・(実はまだまだあります)。
さあ、知られざる麻田剛立の人生を紐解いてみましょう!
天体への興味は5歳の頃から始まった

麻田剛立は、1734年儒学者の綾部安正の四男として生を受けました。
実は麻田剛立の名は、38歳の時に変えた名前で、生まれの名は綾部妥彰(あやべ・やすあき)。
子供の頃から自然や天体に興味があった剛立少年。
5歳の頃に、太陽と影の関係性に気づきます。
庭に竹の棒を立てた時、竹の根本から長い影を伸ばしていることに気づき、その影を小石で強くなぞりました。
そして、影を1日中なぞり続けた結果、影が太陽に連動して動くことを発見しました。
さらに、影の観測を1年間続けることで、季節によって影の長さが違うことにも気づきます。
剛立が6歳の時でした。
剛立少年、11歳で観測を禁じられる
11歳のある日、剛立の母が神社の前を通りかかった時、7〜8人の子供たちが遊んでいたのですが、一緒に遊んでいるはずの剛立がいません。
家に帰ると、空を見上げて紙切れを持つ剛立が。
何をしているのかと母から聞かれた剛立はこう答えます。
「太陽が南中(真南の空に来ること)した時の高さと、太陽が昇ってから沈むまでの間の影の長さの変化を記録して、計算してみようと思って・・・」
呆れた母は、すぐ家に戻るように言います。
しかし夜になると、またしても紙切れを持って庭に抜け出す剛立。
今度は、夜空に浮かんだ月がどの星座の間を移動していくかを観測して、記録していました。
昼夜を通して観測と計算をする生活(1日に10〜16時間ほど)は4ヶ月ほど続き、身体を心配した母から、ついに観測を禁じられます。
しかし、剛立少年はその言葉を無視して観測を続けます(笑)。
結局、父の安正が「学問で死んだものはいない。好きにさせなさい」と言いました。後の剛立が偉大な功績を残せたのも、こうした教育の姿勢があったからかもしれません。
幕府の暦にない日食を見出す

16歳の時、太陽と月の動きを把握していた剛立は、数日先の太陽と月の動きを予測できるようになっていました。
そしてある日、
「日食だ!2日後に日食が起こるんだ!」と予測しますが、幕府が作った暦を見ると、日食の予報は書いていません。
しかしその2日後、見事に日食が起こります。
幕府の暦が間違っているとは思わなかった剛立は、その時は自分の胸にしまっておきました。
その12年後、28歳の12月に、翌年の9月1日に日食が起こることを予測します。
さらに、幕府が作った暦には予報がありません。
誰も剛立の予測を信じない中、唯一剛立を信じたのは三浦梅園でした(三浦梅園については下のコラムでご紹介します)。
そして来たる1763年9月1日、杵築の町民たちが空を見上げる中、見事に剛立の予測は的中します。
町中は大歓喜し、剛立は天文学者として名を上げ、町の子供達から「先生」と慕われるようになったそうです。
日本で初めて月面観測図を描く
剛立の功績はなんと言っても、「日本で初めて*月面観測図を描いた人物」であることです。
日本で初めて天体を科学した剛立は、天文学の研究のため44歳の時に*反射望遠鏡を入手しました。ほかにも、大坂の職人が作った計測器具などを使い、月や天体の観測データを集めることに。
お金に余裕のなかった剛立がこうした機器を用意できたのは、彼の弟子や友人たちのおかげだったと言われています。

そして、弟子たちの奔走で手に入れた反射望遠鏡で月を見てみると、今まで見たことがないほど大きく月が見えたそうです。
実際の月面観測で剛立が描いた絵がこちら。

これが日本初、日本最古の月面観測図です。
剛立は月を「重い疱瘡(ほうそう)の病にかかった人のようだ」と表現し、クレーターのことを「池」と表現しました。
麻田剛立は65歳でその生涯を閉じるわけですが、実は剛立は35歳の時に杵築藩を脱藩して大坂に籍を置きました。
(剛立が脱藩した理由はまた別のお話しで)
剛立は脱藩してまで天体の研究に明け暮れましたが、生涯を閉じるまで杵築藩のお殿様に心を捧げており、様々な城主からの誘いを断っていたそうです。
そして、剛立が亡くなってから約180年後の1976年。国際天文学連合が剛立の功績を称え、月のクレーターに「アサダ・クレーター」と名付けました。
日本人でクレーターに名前を残したのは14名ほどですが、日本人の名前がついたクレーターは10個あり、麻田剛立は大分県民の誇りとして、今でも月に名を残しています。

*麻田剛立がスケッチした月面観測図は、月面のクレーターの様子が描かれており、日本で初めて月面を描いたものとして伝わっている。
*当時の日本に2台しかなかったイギリス製の反射望遠鏡を使い、剛立は月面の観測を行なった。
最後に
大分県の知られざる偉人「麻田剛立」を紹介しました。
「知らなかったけど、すごい人がいたものだ」と思いますよね。
こうしてみると、大分は宇宙に関して日本をリードする県と言えます。
大分空港が国東半島にあるのも、アジア初のスペースポート(宇宙港)ができるのも、麻田剛立や三浦梅園が呼び寄せたのかもしれませんね。
麻田剛立の逸話はまだまだたくさんあります。
図書館に行って、是非とも書籍を手にとってみて下さい。
【ミニコラム①】麻田剛立はケプラーの第三法則を独自に発見していた

まずは、「ケプラーの法則」について簡単に説明します。
これは、ドイツの天文学者であるケプラーが提唱した法則で、惑星の動きには3つの法則があることを見つけます。
- 第一法則:惑星は太陽をその1つの焦点にもつ楕円軌道の上を運動する
- 第二法則:惑星と太陽を結ぶ線分が同じ時間に描く面積は等しい
- 第三法則:惑星の太陽からの距離の3乗と惑星の公転周期の2乗の比は一定で、すべての惑星で同じである
この3つの法則を提唱しましたが、第三法則の考え方が麻田剛立と同じものだったのです。
実際に、剛立の弟子たちがまとめた『麻田翁五 星距地之奇法』に第三法則の計算法が記されています。
麻田剛立が提唱したものなのか、もしくは蘭学書などで見聞きしたものをまとめたのか、正確な記録は残っていませんが、未知の領域に考えを巡らせ、大きな一歩を踏み出す姿勢を持っていたのでしょう。
【ミニコラム②】麻田剛立と共に遥かな宇宙に想いを馳せた三浦梅園

江戸中期の儒者である三浦梅園は、1723年に豊後国(現在の国東市)で生まれました。
歴史の授業ですらほとんど紹介されない人物ですが、親交の深かった麻田剛立と共に宇宙に想いを馳せた人物です。
豊後国の医師として活躍する一方で、20歳ごろから天地の成り立ちや自然現象に惹かれます。疑問に思ったことはとことん考え、研究し続け、自然界で起こる現象を観察・把握していく「条理学」を唱えました。
地元で門人の育成に努めたほか、執筆活動や思索に耽る日々を送り、彼が県外へ出たのは数えるほどしかなかったと言われています。
それほどまでに故郷を愛し、自分が興味を持つ分野に心血を注いだのでしょう。
また、彼の功績をたたえ、国東市安岐町に三浦梅園資料館も建設されました。
館内には、梅園が天体観測に使用していた天球儀をはじめ、肖像画や顕微鏡などが展示されています。
三浦梅園資料間の詳細
住所/大分県国東市安岐町富清2507-1
アクセス/東九州自動車道「大分宮河内IC」から車で40分
入場料/300円(大人)、200円(小中学生)
休館日/月曜(祝日の場合は翌火曜)、祝日の翌日
【ミニコラム③】孫弟子が伊能忠敬!

剛立が54歳の時、日本で初めて「先事館」という天文塾を現在の大坂に開きました。
そこには多くの門人が集まりましたが、中でも「間重富(はざましげとみ)」と「高橋至時(たかはしよしとき)」は剛立の愛弟子でした。
当時の幕府の主席老中だった松平定信(まつだいらさだのぶ)が、新しい暦の作成をするため、剛立に改暦の仕事を求めました。
町医者だった剛立にとっては、一大出世のチャンスです。
しかし剛立は59歳と老齢だったこともあり、その仕事を断りました。
その代わりに、愛弟子の2人(間重富と高橋至時)を幕府に派遣することにし、やがて、高橋至時の弟子である伊能忠敬が天文学を学び、正確な測量技術を使ってやがて日本地図を作りました。
つまり、麻田剛立の正確な天文学の研究がなければ、今の日本に正確な日本地図はなかったかもしれません。