先駆的なOitan

昭和のアイデアマン!
大分市のアレもコレも作った
スーパー市長 上田保

2022.02/10

 大分市城址公園の入り口に佇む2人のおじいさんの銅像、アレって誰がモデルかご存知? 彼らの(銅像)の名前は「木下郁・上田保先生像」といって、木下郁さんは第41~44代大分県知事、上田保さんは終戦直後の初代公選大分市長で、コンビで鶴崎臨海工業地帯の埋め立てや企業誘致を行うなど、今の大分の街の基礎を作った人たちなのです。今回は、向かって左側の像のモデルとなった”アイデア市長“こと上田保さんを掘り下げてみようと思います。まずは生まれてから市長になるまでの経歴を。

中学を留年・退学しても弁護士として活躍、ベストセラーも!

 明治27年、大分市の貧しい農家に生まれた上田保は、読書家の父の勧めで県立大分中学校(現・県立大分上野丘高等学校)へ進学しました。同時期には後の日本画家の福田平八郎もいて、生涯の友として交流を深めます。ところが、そんな保は持病(重度の蓄膿症?)に悩まされ留年、そのまま中退し、作家を志して上京しました。杵築出身の文学博士・物集(もずめ)高見の書生として住み込みで働きますが、物集の助言を受け、一転、弁護士を目指し始めます。そして27歳の時に弁護士試験に見事一発合格! 東京で駆け出しの弁護士として活躍していた35歳の時には、法律を面白く、分かりやすく解説した「趣味の法律」を出版し、以降630版(!)を重ねた大大大ベストセラーとなりました。印税はいかほどだったのでしょうか?すごく気になります!

▲小学校時代の保(「ロマンを追って-元大分市長上田保物語-」 大分合同新聞社)

この気持ち、抑えられない!
湧き上がる郷土愛で市長に立候補

 時は戦争真っ只中。昭和20年の初め、保一家は杵築に疎開します。東京にいる時から在京大分県人会や大分中学同窓会を通じて知り合いも多く、面倒見が良かった保の元には、様々な人が相談に訪れるようになりました。最初に持ちかけられたのは、大分川から取水できず水不足に悩まされていた嘉永小野鶴井堰(かえいおのづるいせき)の改修でした。早速関係者を引き連れ、当時の細田徳寿知事を訪ねた保。着任したばかりの新米知事を相手に灌漑用水の重要性を唱え、初対面ながら、かなり上からの物言いで予算を回すよう圧をかけます。そしてつかみ合わんばかりの激論の末、ついに改修費用を確約させました。さらに、これまで築いてきた人脈を駆使し、大量の良質なセメントや人材を確保、低予算で無事改修事業を成功させたのです。そんな保の行動力や求心力に感動した地元の人々は、戦後初の公選大分市長選に出馬することを勧めます。
 東京に戻って、収入も申し分ない弁護士業を続けるつもりだった保ですが、残りの人生を郷土の発展に捧げることを誓い、大分市へ移住して市長選出馬の意向を固めます。嘉永小野鶴井堰改修の件で地元に強力な支援基盤を得た保は、大道峠のトンネル貫通や臨港線の開通、国有林の払い下げを公約に立候補。下馬評を覆し、ぶっちぎりで当選しました。

▲嘉永小野鶴井堰

「公園市長」に「アイデア市長」
あだ名も実績も次々と…

 市長になった保は公園造りに力を入れ、630種の樹木を集めた都町のジャングル公園のほか、遊歩公園や若草公園など次々と公園を建設し、「公園市長」と呼ばれるようになりました。ほかにも奇抜なアイデアと人脈をフル活用し、現在の大分市の基礎を作ったのです。例えば、今でこそ普通に通っている大道トンネルの貫通や舞鶴橋の架設、昭和通りや中央通り、産業通りの整備、竹町、中央通りのアーケード設置、西大分駅から大分港を結ぶ大分港臨港線の設置、大分鉄道管理局(現JR九州大分支社)の誘致、6市町村合併による新大分市の誕生のほか、一切公金を使わず、約100万本の鉛筆を売りさばいて資金を集め、親交のある彫刻家・朝倉文夫に制作を依頼した遊歩公園の滝廉太郎像の設置も保の実績です。様々な”大分市の当たり前“を作ってきた中でも特筆すべきは、大分市の観光の要である「高崎山自然動物園」と、退任後に行った「うみたまご」の前身である「マリーンパレス」の設立です。

▲若草公園
▲遊歩公園の滝廉太郎像

野生のサルを餌付けして大分市の財源にしちゃおう!

 市長就任後、市の財政難に悩まされていた保は、大学の研究グループが高崎山の野生ザルの生態を調査し始めたという新聞記事に興味を持ちました。特に「観光資源として保護したい」の一文に注目し、「このアイデア、いただき!」と言わんばかりに、野生のサルを観光資源として活用しようと目論みます。
 以前親友の日本画家・福田平八郎から聞いた、手を叩いて鯉を集める話から餌付けのアイデアを思いつき、早速高崎山麓にある万寿寺別院の大西和尚を訪ね、餌付けの協力を依頼。リンゴとサツマイモを置いて回る餌付けを根気よく続けた結果、保がホラ貝を吹くとサルの群れが山から降りてくるようになりました。サル寄せ場が軌道に乗り始めた昭和28年3月から入場料の徴収を開始すると、9月には高崎山一体が阿蘇国立公園に編入され、名称も「高崎山自然動物園」に決定。さらに11月には高崎山の「サル生息地」が天然記念物に指定されるなど、観光に縁遠かった大分市に本格的な観光スポットが誕生します。ちょうどその頃、保をモデルにした小説が朝日新聞で連載され、のちに映画化されたことで「上田市長と高崎山自然動物園」がバズり、入場者数はうなぎ登りに。さぞかしウハウハだったことでしょう。ちなみに保は、野生ザルの餌付けに成功して10年目にあたる昭和37年、市長選に出馬しないことを明言しました。

▲ホラ貝を吹く上田保(「ロマンを追って-元大分市長上田保物語-」 大分合同新聞社)
▲餌のサツマイモに群がるサルたちの様子

大勢の観光客、せっかくだからハシゴさせよう!
世界初のドーナツ型回遊水槽の水族館

 入場者数が年間90万人にも迫る勢いで、高崎山自然動物園の運営も順調な昭和33年。海岸を埋め立てて新たな駐車場を作ることになりました。そこで、「これだけの人数の観光客を1カ所で終わらせるのはもったいない!」と、もう一つの観光施設として(海沿いだし)水族館を作ってはどうか?と思い付きます。しかも、ただの水族館ではなく、何か珍しいものを…。そんな中、気分転換に開いた長者伝説をまとめた古い史料の中からヒントを得て、アーチ型のガラス張りの通路の中から、水路の中で遊泳する魚を観察できるユニークな水族館構想をぶち上げます。そこから二転三転、試行錯誤を繰り返し、ドーナツ型の回遊水槽が誕生しました。今でこそ当たり前となったこの水槽ですが、当時の日本の技術では水圧に耐えうるガラスを用意することが最大の課題でした。そんなとき、イギリスで潜水艦の覗き窓用の特殊ガラスを製造するメーカーのことを知り、調達することとなります。
 市長を退いた保は、本格的に水族館建設に乗り出します。企業や友人らの協力を得て「株式会社大分生態水族館」を設立し、初代社長として水族館の建設と運営を行うことにしました。昭和39年、大分生態水族館「マリーンパレス」が開館すると、世界初のドーナツ型回遊水槽を有する水族館は全国的な話題を呼びました。その後も世界の水産関係の専門家を驚かせた「魚の曲芸」や「キッシングミラー(淡水熱帯魚)のキッス」「タコの大ちゃん宝さがし」など次々とヒット企画を打ち出し、入観客を集めました。ちなみにドーナツ型回遊水槽については周りから「特許の取得を!」と言われたそうですが、保は「よそが真似すれば、それを上回るアイデアで勝負するまでよ!」と言って取り合わなかったそう。カッコイ!!

▲現在の「大分マリーンパレス水族館 うみたまご」

 こうして、アイデアを駆使し様々な”今の大分市の基盤“を作った上田保元市長。大分空襲で被災した大分市を、わずか5年でほぼ復興させました。こういったストーリーを胸に銅像を見上げると、また違った感情が湧き上がるのでは。

参考文献/「ロマンを追って-元大分市長上田保物語-」著者中川郁二(大分合同新聞社発行)

上田保(うえだたもつ) プロフィール

1894年現大分市生まれ。東京で弁護士として活動後、1947年から16年間大分市長を務めた。「アイデア市長」と呼ばれ、戦後の大分市の復興に尽力し、野生のサルを餌付けした高崎山自然動物園や大分生態水族館「マリーンパレス」なども開設した。
 
大分マリーンパレス水族館「うみたまご」
大分市大字神崎字ウト3078番地の22
Tel 097-534-1010
https://www.umitamago.jp/

【ミニコラム】
「2021TNZ選抜総選挙」猿たちの熱い戦いの結果やいかに!?

 2013年からスタートした「TNZ人気サル選抜総選挙」。昨年からは候補のサルをサルたちが選ぶ方式をとっており、史上初めてメスで群れのトップに君臨した「ヤケイ」らが抽選を行いました(来年以降未定)。スタッフ推薦の4匹を含む20匹による熱い戦いが繰り広げられ、人気ザル部門(雌ザル・子ザル)は「アマビエ」、イケメンザル部門(雄ザル)は「ロバート」がそれぞれ初のグランプリに輝きました。

高崎山自然動物園
大分市神崎3098-1
Tel 097-532-5010
https://www.takasakiyama.jp/

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