時代を創るOitan

温泉入れよ。宿題やったか。風邪ひくなよ。
歯みがけよ。

2023.03/30

厚生労働省の調査によると、日本人の2人に1人が1日2回以上歯を磨いており、毎日歯を磨く人の割合は95%にのぼるそうです。さらに、世界40か国の統計によると、日本人が歯磨きにかける時間は平均6.4分と堂々の第一位。いかに日本人が歯の健康に気を使っているかがわかります。今回の大分県出身の偉人紹介は、日本初の歯科医師である小幡英之助先生。日本医学の先駆者的存在だった中津出身です。(ちなみに歯磨き先進国であるにもかかわらず、日本の歯科検診の受診率はわずか10%というデータもあります。)小幡英之助・架空インタビューを読んでいただき、しっかり歯のケアに精進しましょう!

1.「歯科」ではなく「口中科」

───小幡先生は日本で初めての歯科医だそうですが、それまでは歯が痛くなったら誰に診てもらっていたんでしょうか。

私が歯科医の免許を取得したのは明治8年(1875)じゃが、飛鳥時代にまで遡ると耳、目、口、歯をまとめて診る「耳目口歯科」が存在しておったらしい。これが平安時代になると「口科」として独立してその後「口中科」も誕生する。ま、これが歯の専門医の始まりといえるじゃろうな。この頃の治療は歯を抜くだけでなく、お灸をすえたり、祈祷を行ったりすることもあったそうじゃ。しかし、こういった治療を受けられるのは公家、武家など上流階級に限定されていたそうじゃ。

───うわー、庶民はヘタに歯痛になってしまわないようにしなきゃですね。

今より虫歯を患う人は少なかったかもしれんがな。歯にまつわる日本の歴史にはちょっと変わった風習もあってな、女性が結婚すると歯を黒く染める「お歯黒」なんかが有名じゃな。

───志村けんのバカ殿シリーズでもお歯黒ネタがありましたね(笑)。

江戸時代には入れ歯づくりを本業にする「入れ歯師」が誕生するんじゃが、この頃の入れ歯は木製だったとも聞いておる。

───カツカツと音がして、さぞや賑やかだったでしょう…。

で、明治になって医療は西洋医学に基づくようになり、海外から外国人医師も渡来するようになった。それで私が日本の歯科医師の第一号となったという流れじゃ。

2.福沢スピリッツが根付く中津のまち

───小幡先生は中津出身ということですが、子ども時代について聞かせてください。

小幡英之助の生地跡に建つ新中津市学校

私は嘉永3年(1850)生まれの士族の出身で、生家は中津城に近い殿町にある。今は「新中津市学校」が建っておる場所で、ここは慶應義塾との共同による歴史資料の調査研究や中津市民の文化活動の拠点となっておる。知ってるじゃろうが、中津は福沢諭吉ゆかりの地。私より8歳年上の諭吉は、私の父・孫兵衛(まごべえ)と親戚関係にあり、さらに叔父の小幡篤次郎(おばた・とくじろう)は慶應義塾の三代目学長も務めておる。この二人の尽力で中津に設立された洋学校が「中津市学校」で、「新中津市学校」はその流れをくんでいるといえる。

───広く平等に学びを、という福沢諭吉と小幡篤次郎の思いを受け継いでいるのですね。

私自身は幼い時から鉄砲術を学び、7歳には進脩館という藩校に入学した。この進脩館は、教育熱心な中津藩主・奥平昌高(おくだいら・まさたか)が設立した藩校で、なんと200〜300人にも及ぶ生徒から月謝もとらずに講義を行っていたんじゃ。時には藩主自らが講義に立つこともあって、この日は生徒にお菓子を配ることもあり、みんな楽しみにしておったわい。

新中津市学校で紹介されている叔父・小幡篤次郎の偉業

───いいですねぇ。本格的に勉強を始めたのはいつ頃ですか。

元治元年(1864)の秋に、15歳で長州征伐に従軍して、一戦も交えずに中津へ帰ってきたら、初陣でもあったせいか、なぜか褒められたわい(笑)。で、西洋医学の勉強に熱中した。学べば学ぶほど驚くことばかりじゃったわい。この頃で、さっき話した叔父の篤次郎が福沢諭吉先生に連れられて上京したんじゃ。時代は大政奉還を迎え、新たな夜明けを感じていた時期、私も東京でいろいろ学びたいと思うようになって、緒方洪庵(おがた・こうあん)先生が開いた大坂(大阪市)の適塾を経て、ついには明治2年(1869)に20歳で念願の上京を果たし、慶應義塾に入ったというわけじゃ。

3.福沢諭吉も認めるマジメすぎる塾生

───なんだかワクワクしてきました。慶應義塾では、どんな学生だったのですか。

模範生と認められ、どうやらマジメ一徹と言われていたようじゃ(笑)。授業は進脩館に通ずる教え方がかなり取り入れられていたのには驚いたし、やりやすかった。

───中津生まれの特権ですね。

ただ、貧乏学生ゆえに、苦労も多かった。塾から支給される食事は米飯と香の物だけで、副食物は自分で買わねばならん。市中のお店へ煮豆を買いに行く時は、しっかり者の女房が店番に立っていない時を見計らって、少しオマケをしてくれる亭主がいる時間帯を選んでいたのう(笑)

───めちゃめちゃ几帳面だったという話もありますね。

ははは。机の上は定規で測ったようにキチンと本が積み上げられていたからのう。ときたま福沢諭吉先生が塾生の部屋を巡回に来ていたんじゃが、私の部屋は「整理しているのは間違いないから、わざわざ見なくてもよろしい」と言ってたくらいじゃからな。

4.歯科医としての才能が開花したワケ

───医者になるための修行も始めていたんですよね。

明治4年(1871)に慶應義塾の隣に開業していた佐野諒元(さの・りょうげん)先生の元で学び、明治5年(1872)からは横浜の近藤良薫(こんどう・りょうくん)先生から外科について教わった。この時に、歯科医になることを進言されたのじゃ。

───え、外科の修行をしているのに?

ある日、私が医療器具をチョイチョイと簡単に修理したのを見て、手先が器用だということに着目したらしい。「職人顔負けの腕前」とまで褒められ、これなら歯の治療で才能を発揮するに違いないと見立てられたんじゃ。

───手先が器用。確かに歯医者には必要に才能っぽいですね。

そこから横浜で開業していたアメリカから来た歯科医・ジョージ・エリオット先生に私を推薦してくれ、入門することになった。歯の治療はこれまた私の心を惹きつけ、「これは天職かもしれない」と思うようになっていったわけよ。

───歯科医開業に向けてまっしぐらですね。

いや、最初に話したように当時は「歯科」ではなく、「口中科」とか「口科」と呼ばれ、内科や外科などに比べワンランク下に見られていたんじゃな。叔父の篤次郎に至っては「武士の職にあらず」とまで言いよった。それでもエリオット先生の下であらゆる技術を学び取り、エリオット先生が日本を去る時は上海まで同行させてもらえるほどの腕前になっていたので、ここまで来たら有無を言わせるまでにならなかったわい(笑)。

5.唯一無二の存在となり自作自演(!?)で免許を取得

───てことは、いよいよ日本最初の歯科医誕生ですね。

明治7年(1874)に明治政府が医制を発布して、翌年から開業医免許を開始するようになったんじゃな。ところが歯科に関しては、そうは簡単に行かない。何度も言うが、当時は歯の治療医を「口中科」「口科」としか認めてくれず、発布された医制もそのまま変わらなかったんじゃ。

───では、最初は口中科として免許を授かったのですか?

とんでもない! 私は「近代医学なのにありえない!」「口中科の試験とか受けるもんか!」と大反発! その頑固っぷりに根を上げて、「歯科」としての受験を許してくれたんじゃ。

───粘り勝ちですね。試験はどうでした?

これまた困ったことに、試験問題を考える者がおらんという現実を突きつけられることになる。私の師であるエリオットは帰国してしまい、受験する私以上に歯科の知識を持っている者もおらん。そこでたどり着いたのが、私が試験問題を作って、私が受験するという珍案(笑)。しかも受験生は私ひとり。つまり自作自演というわけじゃ。結局これが採用され、日本初の歯科医となったわけじゃ。

6.日本歯科医学会の地位向上に貢献

───なんだか、すごいエピソード…。でも、それだけ突出していたわけですね。

そこから私は日本初の歯科開業医として、明治11年(1878)に東京の京橋区尾張町に独立開業するに至ったんじゃ。治療費は、当時としては珍しく身分によって差別せず一律にした。これは誰もが知る「天は人の上に人を造らず」という福沢諭吉先生の平等の精神からそうしたんじゃ。おかげで大繁盛となり、あの木戸孝充氏も患者として通っておった。

───大久保利通、西郷隆盛とならぶ明治維新の元勲のひとりですね!

手先が器用だったことも忘れちょらんぞ(笑)。日本人の体にあった「小幡式歯科治療椅子」も考案した。門下生もたくさん育てた。ちなみに直弟子22人のうち9人が大分県出身で、そのうち7人が中津。これまたすごいじゃろが。

東京歯科大学に所蔵されている
小幡式歯科治療椅子

───何から何まで、日本の歯科医療に貢献されたんですね。小幡先生の偉業を称え、中津城公園の敷地内には銅像が建てられ、毎年5月に歯科祭が開かれています。歯科医を志す若者にとって、そして大分県人にとって、誇らしい存在だと思います。

中津城公園に立つ銅像。毎年5月に歯科祭が開催される

7.小幡英之助のオオイタ成分

 

 

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