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世にも不思議な謎多き刀鍛冶・紀行平

2023.02/21

世の中、何がバズるかわかりません。これまでリッチな高齢者の趣味のイメージがあった刀剣が、いまや大ブームとなっています。2015年1月のオンラインゲーム『刀剣乱舞 -ONLINE-』配信を機に、アニメ、ミュージカル、実写映画化とメディアミックスが繰り返され、大分の名工・紀行平の作品も刀剣キャラに名を連ねています。各地で開催される刀剣展には若い女性客が増え、大分県立歴史博物館の企画展『おおいたの名刀』でも同様な状況でした。今回は刀のコレクションに勤しむ「カタナクション」と、どこかのバンドのような仮名を名乗る方に、紀行平と豊後刀に関するお話を聞いてきました。

1.まさかの刀剣ブーム来たる

───想定外の刀剣ブームでサカナ…いや、カタナクションさんも驚いているのでは。

ありがたいことじゃ。それまで「刀が好きなんや」とか言ったらヤバイやつ扱いじゃった(苦笑)。最近は『ウマ娘(ウマ娘 ブリティーダービー)』やら、『艦これ(艦隊これくしょん)』やら、ゲームやアニメで擬人化されてから思わぬ人気になるケースが多いが、もともと日本には『鳥獣戯画』のように擬人化を得意とする文化があったけんのう。『刀剣乱舞』に至っては2018年にミュージカルの刀剣男士たち“19振(ふり)”が、あのNHK紅白歌合戦に出場したことで“審神者(さにわ)”たちの間に衝撃が走ったくらいじゃからな。ちなみに“19振”の“振”とは刀の数え方のひとつ、“審神者”とは『刀剣乱舞』ゲームのプレイヤーのことを指しておる。

───深いですね…。

わははは。ついでに言うと日本語には刀にまつわる言い回しが結構あるぞ。「ツバぜりあい」「諸刃(もろは)の剣」「折り紙つき」「もとのサヤにおさまる」「相槌(あいづち)を打つ」「付け焼き刃」「身から出たサビ」…。見当違いやマヌケな言動を指す「トンチンカン」という言葉があるが、これは刀工が刀を打つ時、正確に打てば「トン、テン、カン」のところ、タイミングがずれて「トン、チン、カン」という音になってしまうことに由来しちょるんじゃ。

───付け焼き刃でトンチンカンなことを言ってしまうと、身からサビが出てしまいますね…。あ、すべてカタナコトバになってしまった!

土壇場で切羽詰まって余計なことを口にしても、達人が相手だと太刀打ちできんぞ…と、この「土壇場」「切羽詰まる」「太刀打ち」もカタナコトバじゃ(笑)。

2.謎だらけの刀匠・紀行平とは

───では、刀匠・紀行平について、お聞かせください。

最初に言っちょくと、行平は「謎の刀工」と言われちょる。いろんな伝承があるが証拠となる文献や 記録もなく、専門家や学芸員の皆さんも詳しく断言できないのが実状なんじゃ。『刀剣乱舞』に出てくる行平の名作「古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)」も「地蔵行平(じぞうゆきひら)」も、ミステリアスなキャラクターで描かれておるじゃろ。
「刀剣乱舞 本丸通信」公式ツイッター

「刀剣乱舞 本丸通信」公式ツイッターより

───マジですか!

平安時代の終わりから桃山時代にかけての古刀(ことう)の時代、日本には5大ブランド産地があったんじゃ。大和(現・奈良県)、山城(現・京都府)、備前(現・岡山県)、相模(現・神奈川県)、美濃(現・岐阜県)の5つじゃな。それぞれの地では多くの名工が輩出されており、この5つの地に限らず、刀工たちは集団となって切磋琢磨しながら、腕を磨きあげていくのが定番になっていた。ところが行平だけは、どこの集団にも属しておらず、どうやってあれだけの技術を磨いたのか、サッパリわからんのじゃ。いわゆる一匹狼というか、孤高の存在なんじゃな。

───じ、実在はしたんですよね?

刀そのものは残っちょるからな(笑)。これはあくまでもワシの仮説じゃが、彼は修行僧じゃったという説もあって、刀に適した良い砂鉄が採取できる場所を転々と移動しながら刀を打っていたんじゃないかと思うんじゃな。それを物語るかのように、大分県内各地に行平が作刀していたという伝承が残っておる。国東半島や大分市の高田地区とかな。ま、あくまでも「伝承」に過ぎんのじゃが。

3.修行をしたいがためにフェイクで流刑!?

───生まれはどこなんですか?

それもハッキリわかっちょらん。1144年に駿河国(するがのくに/現・静岡県)で生まれ、豊前国・英彦山(ひこさん/現・福岡県)の僧侶で刀鍛冶じゃった定秀(じょうしゅう)の息子とか弟子とかいわれちょる。その定秀のもとで刀工となった行平は諸国をまわって修行を重ね、30代後半には日本国中に知られる名工になったんじゃな。その間に豊後六郷満山、つまり国東半島一帯の執行(しゅぎょう)に任命されとる。ところが40歳となった1184年に源平の争いに巻き込まれ、罪を犯したとされ上野国(こうずけのくに/現・群馬県)に流されてしもうたんじゃ。

───ええっ、それはマズイじゃないですか!!

そう思うわな。しかし、これまたワシの仮説じゃが、「流された」ということにして、実は刀の修行に行ったんじゃねえかと思うちょる。

───フェイクということですか。

当時、国をまたいだ移動にどれだけ規制があったかは定かじゃないが、罪を犯したということにすれば自由に動ける。道中で各地の刀工とも交流したじゃろうし、上野国に着いてからも腕を磨くことに専念したことじゃろう。そもそも何の罪を犯したかが、わかっちょらんし、刑期を終えるまで上野国で過ごした16年間の記録もほとんどないんじゃ。

4.良質な砂鉄を求めて豊後の国を転々と

───豊後国に戻ってきたのは、それからですか。

上野国で刑期を終えた頃に、源頼朝が鎌倉幕府を開いたんじゃな。この時、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも出てきた頼朝の側近・中原親能(なかはらのちかよし)が豊後国の守護職として入国することになり、その彼の養子が大友能直(おおとも・よしなお)なんじゃな。

───大友氏の初代当主、能直ですね!

能直は豊前と豊後、両国の守護兼鎮西奉行となったんじゃが、ここで行平も能直に従属して入国してきたんじゃ。良質な鉄が採れる国東半島が気に入っておった彼は、鬼ヶ城、鬼籠(きこ)、千燈岳の麓とかで刀を打ち、そこから大分市の豊府に移住してきたとされておる。大分市上野にある大友氏ゆかりの圓壽寺(えんじゅじ)近くの岩屋石仏あたりじゃな。いずれの地も、行平が刀を打った炉の跡らしきものがあるんじゃ。

───大分市鶴崎南部の高田地区に移り住んだのは、それからですか。

そうじゃな。高田地区では後継の育成に励んだとされておる。もともと行平が来る前から刀鍛冶がいた地じゃったが、彼のおかげで評価が高まり、後に「高田鍛冶」ブランドとして称賛されるようになるんじゃな。現地では行平を讃え、没後570年経った1790年に地元有志により墓まで建てられちょるんじゃ。

大分市高田関門の「永寿庵」敷地内にある紀行平の墓

5.栄誉ある御番鍛冶。御物の太刀は、あの重要な場面で!

───後鳥羽上皇の御番鍛冶(ごばんかじ)になったのは、それからですか。

そういう説もあるのう。後に承久の乱(1221年)で島流しにあう後鳥羽上皇じゃが、刀に精通していた彼は、各月交代で1名もしくは2名の御番鍛冶として、日本全国から腕の立つ刀工を集めていたんじゃ。その中に「豊後国紀新太夫行平(ぶんごのくに・きしんだゆうゆきひら)」と、行平がノミネートされちょったんじゃ。ところが、その記録がまた曖昧で、後世に伝わる刀剣書の中に名前があったりなかったり。行平の作品が高く評価されちょったことは間違いないんじゃがな。

───これまた謎というわけですね…。

皇室でいえば、行平の刀は御物(ぎょぶつ)として所蔵されておる。「行平太刀 東宮相伝」と「行平太刀 昼御座御剣」と、2振の太刀じゃ。このうち「行平太刀 東宮相伝」は歴代皇太子に受け継がれてきた御剣で、2019年10月22日に皇居・宮殿で行われた「即位礼正殿の儀」で秋篠宮さまが帯剣されていた太刀が、それじゃ。

───ええっ、元号が変わる度に目にする、あの太刀ですか! メチャメチャすごいじゃないですか!!

そうなんじゃ。大正から昭和、平成と皇位継承の度に歴代の皇太子に伝えられてきた由緒物で、現在の天王陛下も皇太子もおられた、平成2年の即位礼正殿の儀で帯剣されておった。

産経新聞・宮内庁提供画像より。
行平太刀を帯剣された
皇嗣秋篠宮さま

6.国宝「古今伝授の太刀」の名前の由来

───それはそうと行平の刀は、どういうところが評価されているんでしょう。

刀の先端を「鋒(きっさき)」と言うんじゃが、行平の作品は細身で「小鋒(こぎっさき)」な点が特徴とされておる。また日本刀ならではの「腰反り(こしぞり)」が大きくて優雅な姿を描いているところもポイントじゃ。そして何と言っても、最大の特徴は「刀身彫刻」じゃ。行平は日本刀に彫刻を施した最古の刀工と言われておる。写真の太刀と短刀にも倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)や梵字(ぼんじ)が彫られておるじゃろうが。

───うわっ、ホントだ! 国宝指定の作品もありますよね。

さっき『刀剣乱舞』のキャラの話で出て来た「古今伝授の太刀」じゃな。織田信長などに仕えた細川幽斎(ほそかわゆうさい)の愛刀で知られておる。その名前は、あの『古今和歌集』の解釈を師から弟子へ伝える歌道の奥義「古今伝授」に由来するんじゃな。歌人でもある幽斎は「古今伝授」の相伝者でもあるからな。

───当時の武士たちは、文化人としての横顔もあったとよく耳にします。

ところがその幽斎が、関ヶ原の戦い(1600年)の少し前に石田三成軍から攻められて、丹後国(たんごのくに/現・京都府)田辺城に籠城させられてしもうたんじゃ。これに反応したのが後陽成天皇(ごようぜいてんのう)でな、「幽斎が亡くなって古今伝授が途絶えてはならぬ!」と講和させるに至ったわけよ。命が助かった幽斎は勅使の烏丸光広(からすまるみつひろ)に古今伝授を行い、そこで共に渡されたのが行平の太刀で、これが命名の由来になったんじゃ。

───名工としての栄誉を授かった行平の生涯は、その後、どうなったのですか。

うーむ、先ほど話した後鳥羽上皇の「承久の乱」の煽りを受けて、御番鍛冶は捕われの身になったり、追放されたり、あるいは斬られたりした者もいたという。行平は陸奥国(むつのくに/現・東北地方)とか、再び上野国に追放されたという説もあるが、これも例によって定かではない。亡くなったのは承久の乱の翌年にあたる1222年が定説にはなっているようじゃがな。まさに数奇な運命をたどった、謎多き刀工だったといえる。

7.実用性で勝負する豊後刀

───ところで行平が始祖といわれる豊後刀の特徴はどこにあるのですか。

いわゆる「名刀 正宗」のような美術品としての価値の高さよりも、「実用性」が高い刀だと言われちょる。特に室町時代の豊後刀は「平高田」と呼ばれる高田の刀工集団が注目を集め、高田の地は「大友氏の軍事庫」とまで言われよったくらいじゃ。彼らによる刀は、刀身が厚くて、重さの割に振りやすくて切れ味もよく、バランスのとれた重圧感ある刀と評価されておる。なにしろあの剣豪・宮本武蔵も高く評価しよったらしいからな。ま、刀工にしてみれば、後に美術品になるよう意識して作刀してはなかったやろうが(笑)。

───いまも豊後刀を作られてる刀鍛冶はいらっしゃるのですか。

おるで! 2015年に竹田の興梠房興刀匠、2019年に大分市の平清明刀匠が、豊後刀の作刀を始めちょる。おふたりとも、豊後刀の歴史を後世に伝えようと意欲的じゃ。大分の刀剣史は、再び動き出したと言えるじゃろう。

■令和4年度 企画展「おおいたの名刀」の開催について

【 会  期 】 2022年12月23日(金)~2023年2月19日(日)
【 開館時間 】 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
【 休 館 日 】 月曜
【 場  所 】 大分県立歴史博物館 第1・2企画展示室
【 観 覧 料 】 一般 310円、高・大学生 160円、中学生以下無料
※土曜日の高校生の観覧は無料
https://www.pref.oita.jp/site/rekishihakubutsukan/r4-meito.html

8.紀行平のオオイタ成分

 

 

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