「世に身心障害者はあっても
仕事に障害はありえない」


※「身心」の表記について
太陽の家では、身体障がいのある人への支援から始まり、その後、知的・精神障がいのある人への支援が行われたことから、「身心」と表記しています。
日本一のおんせん県といわれる大分県ですが、ほかにも自慢できる「日本一」がたくさんあります。そのひとつに加えたいのが「障がい者福祉・日本一」です。身体障がいのある人への人権問題が当たり前に語られるようになった現在よりはるか以前から、大分県は障がい者福祉に力を入れてきました。そのリーダー的役割を果たしたのが、別府市にある「太陽の家」の創始者、中村裕(ゆたか)先生です。「日本のパラリンピックの父」、さらには「日本のパラスポーツの父」と称される中村先生の偉業を、おなじみ「妄想」インタビュー形式で紹介します。

1.リハビリテーションという単語さえ知られていなかった
───中村先生が日本の障がい者福祉に果たした役割は、非常に大きいと聞いています。きっかけは何だったのでしょう。
私は九州大学医学部を卒業し、昭和27年(1952)から整形外科の医局に入ったんだよ。当時は太平洋戦争の負傷者がたくさんいて、工場や工事現場などの事故も多く、整形外科の役割が大きかったからね。入局して1年後、医局トップの天児民和(あまこ・たみかず)教授から、「最近ヨーロッパではリハビリテーションという言葉が流行っている。きみ、研究してみらんかね」と言われたんだよ。
───リハビリテーションって、当時は一般的ではなかったのですか。
聞いたこともなかった。詳しく紹介した日本の文献が見当たらなかったので、洋書を調べながら研究を進めていくと、ニューヨークに専門の団体があることを知ったんだね。まだ自由に外国へ行けない時代だったんだが、いてもたってもいられず渡米したんだ。百聞は一見にしかず、そこで見た光景に愕然としたよ。手や足を失った人たちが、社会復帰に向けてトレーニングをしていたんだ。たとえ障がいのある体になっても、治療と訓練を受ければ、もとの生活を取り戻るし、職につくこともできるというんだ。帰国後、天児教授から日本初の労災専門病院である九州労災病院にリハビリ科があると聞き、その病院に出向いて夢中になって学んだね。
2.グットマン博士との出会いが私の心を動かした
───生まれ故郷の別府へ戻ってくるのは、それからですか。
昭和33年(1958)に国立別府病院(現・国立病院機構別府医療センター)の整形外科科長として着任したんだ。その翌年にこれまた私の人生を変える出会いがあった。厚生省外国研修で欧米に派遣されたとき、ストーク・マンデビル国立脊髄損傷センターのグットマン博士の治療法に大きな衝撃を受けたんだよ。それまで日本では、病気や事故で下半身が不自由になった患者は、治療後はそのまま再起不能者とみなされるのがほとんどだった。しかしその病院ではバスケットボールや卓球、水泳といったスポーツで身体機能を回復させ、社会復帰させていたんだ。
───日本ではどんな状況だったんですか。
無事に治療を終えて退院しても、新しく始まる車いす生活に不安を覚え、精神的に立ち直れず暗い表情の患者ばかりだった。聞けばこちらでは、脊髄損傷患者の85%が6ヶ月の治療と訓練で社会復帰しているという。日本だと、せいぜい20%くらい。しかも数年かけてのことだった。スポーツを通して腕力や全身の力をつけることで自信を持たせ、さらにスポーツ仲間が増えることで明るく積極的な性格になる。これが「心の回復」に繋がっているとグットマン博士から聞かされたよ。
3.日本初のパラスポーツ大会開催から国際競技会出場へ
───それで帰国後はリハビリ治療にスポーツを導入したのですね。
ところが、これがなかなかうまくいかなかった。医師も患者も「せっかく回復しよんに、また悪くするようなもんや」とか、「あんたは身体障がいのある人を見せ物にするんかえ」と言われたんだよ。それでもスポーツに挑戦する身体障がいのある人が名乗りをあげたのは救いだった。車いすバスケから挑戦したんだが、当時の車いすは木製で、なかなか動きづらい。それでも投げたボールのシュートが成功し、体を動かすことに喜びを見つけていったようだ。彼らからも「この喜びを広く知ってもらおう」と声が上がり、昭和36年(1961)に開催させたのが、日本初のパラスポーツ大会「第一回大分県身体障害者体育大会」だった。
───日本初とは、すごいじゃないですか!
と思ったんだが、残念ながら世間の反応はイマイチだった。「気まぐれ田舎もん医師のお遊び」と言われたほどだ。しかし、ここで引き下がるのは私らしくない(笑)。海外で開かれる国際大会に参加して注目を集めようと、グットマン博士らがイギリスで開催していた「ストーク・マンデビル競技大会」に参加しようと決心したんだ。この大会が、後のパラリンピックになるんだがね。
───日本でダメなら世界でリベンジですね。資金的にかなりご苦労されたのでは。
二人の選手に限って派遣するようにしたんだが、それでも莫大な費用がかかった。いろんな団体や企業から資金を集め、銀行から融資も受け、さらに私の愛車も売り払い、どうにか資金を捻出できたんだよ。おかげで昭和37年(1962)開催の世界20カ国から319名参加した大会に出場し、二人はアジア初の参加選手として名を連ねることができたんだよ。


───結果はいかがでしたか。
一人は卓球、もう一人は卓球と水泳種目に参加。卓球はレベルが高すぎて早々に敗退したが、水泳は見事に3位入賞できたのはうれしかったね。しかも、この一連の動きは日本でも広く報じられ、大きな反響を巻き起こすことに繋がった。これが弾みとなり、昭和39年(1964)開催の東京オリンピックで、パラリンピックも同時開催しようという気運が高まったんだね。
4.東京パラリンピック開催で得た大きな収穫
───大躍進ですね!
「パラリンピック」は「パラプレジア(脊髄損傷)」と「オリンピック」を合わせた造語。実はこれ、日本で考えられたんだよ。第一回は昭和35年(1960)のローマ大会で、続く東京大会は栄えある第二回大会。私は選手団長に抜擢され、開催に向けた会議や各方面への説明、そして開催資金の交渉に、別府と東京の往復を何度も繰り返した。当時は新幹線も開通してなかったので、夜行列車で出かけ、その日の夜行で別府へ舞い戻り、翌朝には国立別府病院へ出勤という日もあった。しかも日によっては100名を越える外来患者を診察し、さらに担当している約80ベッドの入院患者の回診と、まさに寝る時間もないくらいだった。まぁ私は厳しい状況になればなるほど、頑張ってしまう性格だからね。世界の舞台で戦える出場選手探しにも苦労したが、どうにか53人の選手団を作れた時はホッとしたよ。

───凄まじいエネルギーを投入したのですね。そのおかげで世界21カ国・378名参加の東京パラリンピックが実現しました。
大会そのものは第一部と第二部に分かれていて、第一部は「第13回国際ストーク・マンデビル車いす競技大会」として行われ、日本選手と西ドイツ(当時)選手の第二部は、車いす以外の身体障がいのある人も参加した大会だったのも画期的だった。
開催から終了に至るまで、歌手の坂本九さんによるチャリティーコンサート、学生を含む通訳ボランティア156人に1年かけて行った英会話レッスン、陸上自衛隊の皆さん101人による選手移動の介助、さらには東京オリンピック会場を突貫工事でスロープや手すりをつけたり…。いま思えば、皆さんよく協力してくれたと感謝するばかりだよ。

───当時は身体障がいのある人への偏見も根強かったでしょうに。
参加選手にも、それまでは人前に出ることに消極的だった選手もいたね。だからこそ開会式の選手入場行進には、グッとくるものがあったね。水泳と車いすフェンシングに出場した青野繁夫選手が選手宣誓を行ったんだが、彼は両種目で銀メダルを獲得する活躍ぶりだった。日本選手団唯一の金メダル獲得は、卓球男子ダブルスの猪狩靖典・渡部藤男組。その他のメダルも銀が5、銅が4と、初出場にしては大健闘したのではないかと思うよ。
5.障がいのある人の社会復帰を支援する「太陽の家」設立へ
───パラスポーツが脚光を浴びる足がかりになりましたね!
確かにそうだが、ここで私は大きな課題を目の当たりにしたんだ。競技終了後の外国選手はみんな明るく、背広に着替えて車いすで銀座にショッピングへ出かけていく。しかし日本選手は暗い顔で寝間着に着替え、とぼとぼ療養所に帰る仕度をしている…。聞くところによると外国選手のほとんどは神父、弁護士、セールスマン、電気技師などの仕事を持ち、健常者と同じような生活をしている。一方の日本選手で職業を持っているのは、わずか5名。とても自分が自由にできるお金など持ち合わせていなかったんだ。これではいけないと思ったね。
───そこから身体障がいのある人の自立を支援する「太陽の家」設立に動いたのですね。
スポーツを通じて健康を回復した彼らなら、きっと仕事もできるはず。ならば彼らが働ける場所を作ろうじゃないかと考えたんだよ。さっそく彼らができる仕事はないものかと、あちこち会社をまわりはじめた。ところが身体障がいのある人が作業することに不安を感じる会社が多く、なかなか発注まで至らない。どうにか竹細工や洋裁、義肢作りの仕事を受注し、パラリンピック翌年の昭和40年(1965)10月に、身体障がいのある人が自立する工場の開所にこぎつけたんだ。最初の入所者はわずか7人だった。

───「No Charity, but a Chance! 保護より働く機会を」をモットーにした「太陽の家」の始まりですね。施設名も素敵な名前ですね。
名付け親は直木賞作家の水上勉先生なんだよ。実は水上先生の娘さんが障がいを持っており、私が手術をしたことが縁で命名してくれた。シンボルマークはサンサンと輝く太陽に、踏まれても踏まれても伸び続ける麦の穂をあしらったもの。このニュースが全国に報じられると各地から「ここで働きたい」と応募が集まり、開所からわずか3年で100名を越える勢いになった。

6.数多の困難を乗り越え、大手企業と共同会社設立へ
───多くの障がいのある人が望んでいた場だったのですね。
しかし、いざ工場が稼働しはじめても、最初はなかなか軌道に乗らなかった。障がいのある人による作業だから製品ができあがるまで効率が悪かったんだね。しかも工場の環境は悪臭や雨もりがする劣悪な状態。それでも一生懸命に働く工員たちに、赤字の中でもわずかばかりの給料を払い続けたんだ。この状況を打破するために思いついたのが、ベルトコンベアなど近代設備を導入した大企業の工場を誘致することだった。これだと体に不自由があっても効率よく働け、安全で快適な作業ができる。例によって私は、何軒も何軒も大企業をまわったんだが、なかなか反応は鈍い。水上先生や評論家の秋山ちえ子さんなどがラジオ番組で呼びかけ、少しずつ寄付そのものは集まりはじめてはいたんだがね。


───正直なところ、私だったらここであきらめますね。
ところが捨てる神あれば、拾う神あり。立石電機(現・オムロン)の立石一真社長と出会ったことで、パーッと光が射し込んだ。立石社長は、太陽の家と共同出資して電子部品を組み立てる新会社「オムロン太陽」を作り、「障がいのある人も株主となって経営に参加しよう」と提案してくれた。世界にも例のないこの取り組みでスタートした新会社は、見る見る業績をあげていき、以降はソニー、ホンダ、三菱商事、デンソー、富士通エフサスといった大手企業も共同出資会社を作る運びとなり、現在に至っているんだ。

7.フェスピック、そして大分国際車いすマラソン開催
───先生の信念が実った格好ですね。
ただ、ここで歩みを止めないのが私なんだ。困ったことに。欧米に比べてパラアスリートの競技機会が限られていたアジア・太平洋地域で、私は新たな国際大会が必要だと考えはじめたんだ。そこから昭和50年(1975)の開催にこぎつけたのが「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」、通称「フェスピック」だった。しかも主会場は大分・別府だった。この大会では、車いすでの競技者に限らず、脳性麻痺、視覚障がいといった様々な障がいをもつ選手も出場可能にした。恩師のグットマン博士を招き、皇太子・皇太子妃ご臨席のもと、第一回大会は18カ国参加で開催したんだ。現在は「アジアパラ競技大会」にその役割を引き継ぎ、継続しているんだよ。

───先生の行動力と発想力には驚かされるばかりです。
そこから生まれたのが「大分国際車いすマラソン」なんだ。これは1975年開催のボストンマラソンに、アメリカの車いす青年が参加した姿を見て、太陽の家で「別府大分毎日マラソンを健常者と共に走りたい」という声があがったのがきっかけ。さっそく私は関係機関に参加許可を求めたが、当時の陸上競技ルールでは車いすの参加は認められなかった。であれば、車いすランナー単独による国際レースを開催しようじゃないかと、昭和56年(1981)の国際障害者年に第一回大会を大分市で開催したんだ。参加人数は117名。最初は試験的にハーフマラソンでの開催だったが、起伏のあるコースを109人の選手が完走した。ちなみに、ここで思わぬハプニングが起きたんだよ。

───ハプニング?
トップを走っていたオーストリアとアメリカの選手が、手を握りあってゴールして、二人の「同時優勝」を主張してきたんだ。ここで私は「この大会はタイムを競うレースであって、単なるレクリエーションではない」という審判を下し、わずか0.1秒だけ前輪のゴールが早かった選手を優勝としたんだ。これについては「リハビリの一環ではなく、競技色を強く打ち出したフェアな判定」とみなされ、その後のパラスポーツの発展に寄与すると評価されたんだね。
───競技という名である限り、ホンキで競ってもらわないと、ということですね。日本における「パラリンピックの父」であり、「パラスポーツの父」といわれる所以でもありますね。
振り返れば太陽の家も、立派な就労施設として今日まで成長を遂げてきた。大手企業との共同出資会社を軸に、地元協力企業、障がい者支援施設、高齢者施設等も含めると、今では約1,400名もの在籍者を数える「家」となっている。愛知や京都にも太陽の家の輪は広がり、すべてあわせると約1,800名を越える「ファミリー」を抱えるまでになった。施設内には、地域の人も利用できる銀行、スーパーマーケット、体育館、ホール等が揃い、障がいのある人とない人が交流できるイベントも開催している。令和2年(2020)には、体験型資料館「太陽ミュージアム」も開館した。私が撒いた種が、これからも太陽のような輝きを増していくことに喜びを感じているよ。
※写真提供:社会福祉法人 太陽の家
8.中村 裕のオオイタ成分
PROFILE
中村裕(なかむら・ゆたか)。医師。1927年、別府市生まれ。1951年、九州大学医学部を卒業後、同大学整形外科医局に入局し医学的リハビリテーションを研究、1958年には国立別府病院整形外科医長として着任。1960年の英国留学でグットマン教授が取り組む身障者の社会復帰治療に感銘。帰国後、「第1回大分県身体障害者体育大会」開催に尽力し、1964年の東京パラリンピック開催に大きく貢献する。1965年、障がいのある人の職業的自立を目指す「社会福祉法人 太陽の家」を別府市に創設。翌1966年には、大分市に大分中村病院、1974年に明野中央病院を開院。1975年、第1回フェスピックを開催。さらに1981年、第1回大分国際車いすマラソン大会を開催。1984年、肝不全により57歳で生涯を閉じる。
■社会福祉法人 太陽の家
http://www.taiyonoie.or.jp
■大分国際車いすマラソン
https://kurumaisu-marathon.com
