時代を創るOitan

学びの塾を選ぶなら
ニャンと言っても萬里流

2022.11/07

大分県には先見の明をもって、新たな未来を切り拓いてきた先人が多数存在します。「豊後三賢人」の一人、帆足萬里もグローバルな視点で幕末の学問に一石を投じた儒学者です。今回は、「萬里が可愛がっていた猫の末裔」と名乗るニャンリ塾長(マタタビ塾代表)に、萬里について存分に語ってもらいました。文献に残されていないエピソードも洗いざらい話してくれるとのことで、萬里の隠れた横顔にも「一石を投じ」てしまいそうです。

梅園-萬里-淡窓、大分の最強カードが繋がった

───ニャンリ塾長、よろしくお願いします! さっそくですが、日出町では帆足萬里先生の像や肖像画をよく見かけます。シュッとした面長の顔立ちで、いかにも学者さんといったイメージですね

そうニャのかな。実は若かりし頃の先生は、丸顔だったんニャ。体重も結構あったし背も高く、病弱ではあったが自ら節制して75歳まで長生きできた。あまり体裁を気にしない大らかな性格で、礼儀や服装も無頓着。家老時代は、袴をゆがんだまま履き、食事も自ら台所まで足を運び、パッパと済ませておったらしい。そもそも名前さえ雅号を使うことなく生涯を通じて「萬里」で通し、手紙には通り名の「里吉」を使いよった。ニャンとも親しみを感じる先生じゃった。

───あれだけ偉い先生なのに意外ですね。幼少期からかなり優秀だったんでしょ。

父親は日出藩木下家の家老で帆足通文(ほあし・みちふみ)といってな、風流を解する知識人で、三浦梅園(みうら・ばいえん)先生とも親交があった。確か梅園先生が日出を訪れた時、3歳の萬里先生と会ったと聞いておる。当時の帆足家は的山荘の向かいに住まいがあり、そこから儒学者の脇蘭室(わき・らんしつ)先生が小浦(現在の豊岡あたり)に開いた私塾「菊園」へ萬里先生は通っていたんニャ。先生が14歳の時じゃった。蘭室先生は文章を書くことに力を入れており、萬里先生の文章力はこの時に培われたんじゃないかニャ。蘭室先生も「日出の帆足生、才峰秀出、けだし鶏群の鶴なり」と高く評価していたらしい。

───頭脳明晰ぶりが際立っていたのですね。

そのうち藩も萬里先生に期待を寄せ、立派な学者になるよう奨学金を出して遊学させた。遊学先は21歳で大阪の中井竹山(なかい・ちくざん)、24歳で福岡・筑前の亀井南冥(かめい・なんめい)、25歳で京都の皆川淇園(みながわ・きえん)と、いずれも一流の学者ばかり。ちなみに筑前からの帰りに、日田の広瀬淡窓(ひろせ・たんそう)先生を訪ねておる。淡窓先生と直接会ったのは、この1回限りじゃったが、意気投合した二人の親交は生涯続いたんニャ。

───頭脳明晰ぶりが際立っていたのですね。

いずれも国内だけでなく世界に目を向けた三人。萬里先生が25年もかけて書き直した『窮理通』は日本の自然科学史における画期的な文献であり、『四書標註』『五経標註』『東潜夫論』は萬里先生らしく「和魂洋芸」の思想を反映させた名著と評価されておるんニャ。

オランダ人学者も注目した全8巻から成る『窮理通』

萬里の記憶力はスパコン並み?

───萬里先生は、とにかく記憶力が抜群だったらしいですね。

萬里先生には、こんな逸話も残されておる。ある日、外出先で夕立にあった先生は、懇意にしている染物屋で雨宿りをさせてもらった。ちょうどその日の会計を主人がシメてる最中で、先生は横で帳簿を見ておった。信頼のおける萬里先生だけに主人も隠すことなく計算しよったんじゃろう。やがて雨もやんで、先生は染物屋を後にした。ところが数日後、この染物屋が火事で焼けてしまうんじゃ。

───それは大変! 染物も何もかも火事で焼けてしまったのでは?

そう、帳簿もニャ。実は染物屋は、何人もの客にお金を貸しておった。どうしたものかと困り果てているところ萬里先生が来て、「この間見せてもらった帳簿のことじゃが…」と、帳簿に書かれていた貸付先の名前、住所、取引内容を全部教えてくれた。確認してみると、すべて正しかったので主人はひと安心したらしい。

───コンピュータ並みの記憶力ですね!

先生は「蔵書のない読書家」とも呼ばれておった。なにしろ高価な書物など、とても手に届かない。特に洋書は入手困難で、長崎にいる知人や門下生から読みたい書物を取り寄せ、読み終えたら直ちに返すことの繰り返し。買ったものでも売り払って別の書物を求めておった。蔵書を「持たなかった」のではなく、「持てなかった」んじゃ。

───ご苦労されたんですね。

おかげで塾に書物はほとんど置いてなかった。塾生たちから「さっき先生が教えてくれたことを書いてある書物は?」と尋ねられると、「私の頭の中にある」と答える始末。そして続けてこう言った。「書物が手元にあると、どうしても安心する。忘れても、また読めばいいという安易な気持ちになる。しかし頭から無いとわかれば、一度読んだものを必死になって覚えようとする。おまえたちもそうしろ」と…。ニャンとも返す言葉がないじゃろが。

人を惹きつける魅力の持ち主

───萬里先生の塾には、日本国中から優秀な塾生が集まったそうですね。

26歳で中ノ町(現在のJR暘谷駅近く)に家塾を開いた萬里先生じゃったが、ここではあまり塾生が集まらなかった。しかし先生の才覚を評価していた木下俊敦(きのした・としあつ)13代藩主は、藩士の子弟教育にあたらせたんニャ。そこから先生の教え方が評判を呼び、九州、四国、中国地方、さらに越後など遠くから塾生が集まるようになったんニャ。

───何が人気だったのでしょう。

ふたつ理由がある。ひとつは、塾生たちと肩を並べて、共に学ぶ姿勢じゃないかニャ。一般的に学校の授業というと教壇に先生が立ち、同じ学問を習う様子が浮かぶじゃろう。しかし先生は一人一人の横に座り、それぞれの塾生が学びたいものを学ぶスタイル。しかも先生は塾生と対等に話を聞き、常に寄り添った教え方を貫いた。この師弟関係を超えた教育方法に、塾生たちは親しみを感じるようになったんじゃ。とにかく気がついたら多くの人を惹きつけている、ニャンとも不思議な魅力を持った先生だったニャ。

隠れた才能をズバリと掘り起こす

───もうひとつの理由は?

もうひとつは、才能を見極める能力。儒学、経済、医学、窮理(物理学・天文学等)と、萬里先生はあらゆる分野の弟子を育てたが、必ずしもそれぞれの学問に精通していたわけじゃニャい。たとえば一番多くの才能を輩出したのは医学分野じゃったが、先生はそこまで医学を学んでおらん。それぞれの性格や能力を見抜き、適材適所に導くのが萬里流の教育方針だったんニャ。

───それぞれの才能を見抜くのは大変でしょう。

こんニャ言い伝えがある。儒学を学んでいた小田魯庵(おだ・ろあん)という塾生がおってな、これがいまひとつパッとせん。ある日、先生は飼い猫を膝に乗せ、塾生たちと縁側で日向ぼっこをしておった。そこで「こいつは可愛いが、どうも尻尾の具合がよろしくない」と先生が呟いたのを聞いた小田は、すくと立ち上がって奥からカミソリを持ってきたかと思うと、尻尾のおかしな箇所をいきなりスパッと切り落としたんニャ。

───え、それヤバイでしょ!

ところが痛みがなかったのか、猫はニャンとも言わない。みんなあきれかえったが、そこで先生が「おまえはその手際のよさから、儒学より医学を学んで外科医になるべき」と進言した。そこから麻酔術で有名な華岡青州先生(和歌山県)を紹介し、結果的に小田は立派な外科医になったんニャ。これを知った塾生たちは、「先生はどんなダメ弟子にも隠れた才能があると思い、見放すことはことしない。最後まで温かい目で育ててくれるんだ」と感激したんだニャ。

───なかなか興味深いエピソードですね。それはそうと、その飼い猫って…。

そう、我輩のご先祖さまニャ(笑)。

ソロバンは剣よりも強し!

日出藩13代藩主・木下俊敦の要請で家老を務めた日出城址

───萬里先生には家老時代もあったんですね。

藩が天保の飢饉で困窮していた時期、藩主から頼まれて家老として財政改革に着手したんニャ。萬里先生が55歳の時じゃった。もともと「人間の暮らしは数字で成り立っている」「武士もソロバンを持つべき」「“武士は食わねど高楊枝”とか言ってるヤツはバカ」といった考えの持ち主。当然ながら財政改革にも厳しくあたったんニャ。

───多くのムダを無くしていったと聞きます。

鐘つき番の話がある。定刻になると鐘を鳴らす当番がいたんじゃが、ずっと鐘の横にいて他に何をするでもない。それを見かねた萬里先生は自腹で時計を買ってきて、「時刻になったら鐘をつきに行け」と命じた。そうすると空いてる時間を有効活用できるしニャ。

───ノンキな時代ですね。

他にも徹底的に改革を断行していったが、ちょっとやりすぎた。庶民の娯楽であった相撲までも、「賭け事の材料に繋がる」と禁じたんニャ。人事についても、自分が育てた有能な弟子を重要ポストに配属したため、ここでも批判が巻き起こった。もちろん他意はなかったんじゃが、結果的に3年で藩の財政も好転してきたので、先生は自ら家老職を辞したんニャ。日出の山奥に私塾「西崦精舎(せいえんせいしゃ)」を開いたのは、そこから7年後のことだニャ。

山奥の塾からニッポンの未来を憂う

現在は九州自動車道・日出JCの真下に位置していた西崦精舎

───西崦精舎といえば、今で言えば大分自動車道・日出ジャンクションの真下あたり。かなり不便そうですね。

実は安心院と日出をつなぐ街道沿いで、意外と便利がいい。町から離れているから静かだし、悪い遊びの誘惑もニャい。しかも当時の塾は、日中は勉強に集中するが夜はドンチャン騒ぎというのが定番。近所迷惑も考えなくていいから、絶好の環境だったと言えるニャ。ちなみに塾則「同遊約」には、「近隣住民に迷惑をかけるな」「竹木を勝手に切るな」「夜は大声で歌うな」と生活規範だけで、勉強のことは一切書かれていニャい。裏を返せば、「勉強するのは当たり前」だったということだニャ。山奥の小さな塾に塾生たちが泊まり込み、猛勉強を重ねていった。ちなみに多い時は130人もの塾生が集まり、寝床は一人あたりタタミ半畳分くらいしかニャかったらしい。

───うわっ、よく寝られましたね。それはそうとこの時期、萬里先生は脱藩までして京都に向かわれましたね。

また京都で学びたかったんじゃろう。塾生たちの協力もあって、掟破りの脱藩は成功したんニャ。実は、朝廷に国立大学をつくるよう進言しに行ったという話もある。ちょうど浦賀に外国艦隊が来航しはじめた時期で、海外の学問も学んでいた先生は、「このままでは欧米の列強国に日本は圧倒されてしまう」と危機感を持っていた。学問についても「私塾だけでは限界があるので、国を挙げて学びの環境をつくるべき」と直訴しようとしたんじゃろう。

───志高く、京都まで出向いたのですね。

しかし、この話が江戸幕府の耳に入り、密かに日出藩に注意が来て、先生は1年で連れ戻された。めっぽう先生に頭が上がらなかった藩としては、「体裁を整えるため、脱藩について叱らせてください」と断りを入れたというのも、おかしな話だニャ(笑)。

毛利空桑との懲りない師弟関係

───萬里先生から教えを受けた塾生は、どれだけいたのですか。

最新の資料で287名(昭和59年・辻満生『帆足萬里先生相周門人簿』)。藩学と私塾を並行していたことも考えると、ニャンと千人を超えていたんじゃないかニャ。塾生の名をあげると、毛利空桑(もうり・くうそう/肥後藩領・鶴崎)先生をはじめとする「帆足門下の十哲」と呼ばれた10人、福澤諭吉先生の父親である中津藩の福澤百助(ふくざわ・ひゃくすけ)先生、中津藩医の村上玄水(むらかみ・げんすい)先生、あと日本初の反射炉を完成させた宇佐の賀来惟熊(かく・これたけ)先生もそうじゃった。

───毛利空桑先生といえば、湯布院・金鱗湖の名付け親ですよね。

「その空桑先生がなかなかヤンチャでな、実に3回も破門させられておる。最初の破門は、萬里先生の庭にある柿の木にまつわる話。その柿がよく盗まれるので、先生は「この柿を取った者は何人であれ柿の木に縛り付ける」という立て札を立てたんニャ。ところが先生の奥さんが自宅用に柿を収穫したところ、それを見た空桑先生が奥さんを柿の木に縛り付けた。その暴挙に激怒した萬里先生に「何人であれ縛り付ける、と書いてあるじゃないですか」と全く悪びれる様子もない。結果的に先生は破門を言い渡されたんニャ。

───そりゃそうでしょう(苦笑)。

その後、あらためて入塾したものの、再び破門。そこから懲りずに、またまた弟子になったというから、空桑先生もよっぽど萬里先生のことを慕っていたんじゃろう。で、3回目の破門は、既に空桑先生が鶴崎に私塾を開いてからのこと。あることを思いついた空桑先生は「一刻も早く萬里先生に伝えたい」と、半日かけて日出まで駆けつけた。ところが先生は既に西崦精舎を開き、山奥へ移転済み。

落胆した空桑先生は「萬里先生の山奥の塾を閉めさせ、すぐに町へ移転させろ」と家老に抗議したんニャ。これを聞いた先生は「何を勝手なことを!」と、3回目の破門を言い渡した。しかし、その破門が解けぬうちに萬里先生は亡くなってしまい、空桑先生は強く後悔するんだニャ。破門が解けてないため葬儀にも参列できず、雨の降る中、葬儀が行われた龍泉寺が見える山の上から棺を見送ったらしい。

別府湾の風光を眺望し、日出城に向けて建てられている帆足萬里の墓

───まるで学園ドラマに出てきそうな泣かせる話です。今回のお話を聞いて、当時は先生も塾生たちも、学ぶことに貪欲な時代だったと痛感しました!

それがわかれば、萬里先生も報われるというもの。我輩もニャンコ界の萬里先生になれるよう、ますます精進するニャ。

■帆足萬里記念館
大分県速見郡日出町2602-2
TEL.0977-72-6100/9:00~17:00/入館無料/月休(祝日の場合は翌平日休館)
https://hijinavi.com/spots/detail/2

(注)本稿には文献で残されていない「言い伝え」のエピソードも含まれています。

 

 

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