時代を創るOitan

ジャパン・プライドと平和を
死守した外交官

2022.09/20

終戦から80年を迎える2025年を前に、世界は再び緊迫の時を迎えています。混沌とした時代に思い起こされるのは、太平洋戦争にピリオドを打ち、平和のスタートをきるために活躍した一人の人物。その名は、重光葵。なんと大分県生まれ。日本人のみならず、世界の要人からも尊敬される彼の功績と生い立ちを本人への「妄想」インタビュー形式で振り返ります。

「連合軍に最も恐れられた男」です

───はじめまして。いきなり失礼なことを言わせていただくと、重光さんの功績を著した『重光葵 連合軍にもっとも恐れられた男』(福冨健一著・講談社)という本があるくらいですから、かなりコワモテの方かと思っていました。知性あふれるジェントルマンという雰囲気が漂っています。

ははは。そういう書籍も出たらしいね(笑)。

───「欠点がないのが欠点」という声もありますよ。重光さんといえば、終戦後の1945年9月2日に米戦艦ミズーリ号の甲板で、降伏文書に調印されましたよね。総理大臣でもない重光さんが政府の代表とは、ちょっと理不尽に感じるのですが…。そもそも重光さんは「連合軍を相手に戦争をしてはならない」と反対していましたよね。

ポツダム宣言を受諾した日本国は、終戦に関わるいろんな手続きを進めながら、占領軍と直接交渉をしなければならなかったんじゃ。そこでこれまで世界の要人とコミュニケーションを交わしてきた外務大臣としては、日本の誇りを守る役割をきっちり果たさなければならないと名乗り出たんじゃよ。外国語で書かれている降伏文書の調印は、内容を熟読しなければならんからね。

───日本にとって不利な文言がこっそり紛れこんでいる可能性もありますからね。めちゃくちゃ重い責任を背負ったじゃないですか。

長い歴史の中で、日本が降伏文書への署名するのは初めてのこと。屈辱的じゃが「日本が無条件降伏した」という現実を受け入れてこそ、新しい平和が始まる。調印式に向かう直前、決意を固めた私は次の句を詠んだんだよ。
「願くは 御国の末の 栄え行き 吾名さげすむ 人の多きを」

───「将来、日本が栄え、降伏文書に署名した私を軽蔑する人が増えることを願う」…。ううっ、グッときます(大泣き)。

実は日本軍を代表して、中津出身の梅津美治郎参謀総長も降伏文書に署名したんじゃよ。敗戦の後始末という誰もやりたくない難儀な役割を、大分県出身の二人が引き受けたとは、奇遇なもんじゃな。

降伏文書調印式での様子

日本の公用語が英語になっていた!?

───無事に調印が成功してよかったですね。

いや、ホテルに戻ってホッとひと息ついていたところ、トンでもない報告があったんじゃよ。連合国総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが、占領軍によって直接軍政を敷くと言い出したんじゃ!

───げげっ、それはヤバイじないですか!! それって日本が植民地になるということですよね。

そこで私は、ソッコーでマッカーサーの自宅に抗議をしに行ったんじゃ。「この行為は日本の主権を認めたポツダム宣言から逸脱するものだ!」とね。しかも、その中には「公用語を英語にする」という方針まであったからね。

───えっ、日本語が無くなりかけてたんですか! そりゃあ毅然として、粘り強い交渉力が求められますよね!

その甲斐あってマッカーサーは方針を撤回し、日本政府を通した間接統治となったんじゃよ。もともとマッカーサー自身は「日本を破壊する意図はない」と言ってたんじゃが、そもそも日本はドイツと違って政府は壊滅しておらず、占領政策の受け皿になり得たからね。それでなくとも国内は混乱していたから、方針を取り下げてくれてひと安心じゃった。しかし、この日は本当に疲れ果てたね(苦笑)。

日本は東西のかけ橋になり得る

───お疲れさまでした! 「連合軍にもっとも恐れられた男」という呼称は、この時の姿に由来するんですね。

そこから日本は連合国の占領下になったものの、7年後の1952年にはサンフランシスコ平和条約を結んで国際社会に復帰。1956年には国際連合への加盟が承認されたんじゃ。鳩山一郎内閣で外務大臣を務めていた私は、この時にニューヨークの国連総会で加盟受諾演説を行ったんじゃよ。

───加盟国から拍手喝采を浴びた、あの演説ですね!

「日本は東西のかけ橋となり得る」と訴えたんじゃ。世界各地で起こる武力による戦争を抑止したり、解決に導いたりするには、国連が主体となって取り組んでいくべきじゃ。この100年で、日本は欧米やとアジア各国とも関わってきた。戦争を経験し、その苦しさを知っている日本だからこそ、世界における平和政策をリードする立場にあると強く訴えたんじゃよ。

───演説後には国連本部での国旗掲揚にも立ち会われたそうですね。

日本が世界の国々から認められたことに安堵し、これから国際社会の中で果たすべき責任を噛み締めたね。私は帰りの機内で、あらためてこんな歌を詠んだ。「国連の 庭に掲げし 日の丸の 旗は朝日に 輝きて見ゆ」。ニューヨークの空にたなびく日の丸は、本当に輝いて見えたもんじゃよ。

「葵」と書いて「マモル」と読む

葵が少年時代を過ごした「無迹庵」
大分県杵築市本庄893番地1 TEL.0978-62-5556/開館 10:00〜17:00/
火・水・木・年末年始休/入館料 一般150円・小中学生80円

───あらためて重光さんの生い立ちを詳しく聞かせてもらえますか。

私が生まれたのは大野郡市場村(現・豊後大野市三重町)。当時、父親が大野郡長じゃったから、多田家という庄屋の離れが官舎だったらしい。まだ物心がつくかつかないかの3歳の時、今度は西国東郡長に任命された父は、郷里となる速見郡八坂村(現・杵築市)に転居した。そこから八坂尋常小学校(現・八坂小学校)、杵築高等小学校、杵築中学校(現・杵築高校)に進んで、17歳までは杵築で過ごしたんじゃよ。

───その間、国東郡安岐村山口(現・国東市安岐町)にある本家の養子に迎えられていますよね。

高等小学校3年生の時、本家の25代当主にあたる重光彦三郎の養子になったんじゃ。彦三郎は母の兄、つまり伯父にあたるんじゃが、本家には男子がいなかったから私が跡を継ぐことになったんじゃ。実はこの頃、実家の財政状況も厳しかったから、学資負担を本家に担ってもらいたいという理由もあったらしい。ところが、その前年に杵築中学校が設立されたんで、結局その後も私は杵築の父母の家から通学していたんじゃがな。

───自分の将来を思い描いたのもこの頃ですか?

杵築中学校に通っている時、将来は国際政治に関わるような役人や外交官をめざそうと思ったんじゃ。これは父や兄をはじめ、家族や周囲の影響もあったと思う。もともと父は漢学者で杵築藩の藩校で教鞭を執っておってな、教育熱心で厳格な父じゃった。ちなみに私の名前は「葵」と書いて「マモル」、兄は「簇」と書いて「アツム」、弟は「蔵」と書いて「オサム」と読む。いかにも漢学者らしい特別な名前じゃろ(笑)。そもそも父だって「直愿」と書いて「ナオマサ」と読むしな。

───キラキラネームとは違い、重みがありますね。

その一方で、非常に開明的な考えも持ち合わせておった。「これからの日本人が国際舞台で活躍するためには英語ができなければ」と、私の外国語習得にも力を入れてくれたんじゃ。

ゆかりの品を展示している「山渓偉人館」
大分県国東市安岐町下山口567番地3 TEL.0978-67-1003/開館 10:00〜16:00/月・火・年末年始休/入館料 一般100円・中学生以下50円

夢と現実との狭間で悩みに悩んだ進路

───杵築中学卒業後は、九州の超名門、第五高等学校(現・熊本大学)に進学されました。

実は試験願書を提出する直前まで法科、医科、工科の、どれに進むべきか大いに悩んだんじゃ。夢である外交官を目指すなら法科じゃが、国語や漢文、作文が苦手で、これは相当に厳しいなと思った。学資を支援してもらっていた学校医の先生からも医者になることを勧められていたし…。しかし医科に進むとなると家計への負担が懸念される。となると、兄も在籍していた工科への進学が現実的なのかもしれん…。

───すごく悩まれたんですね。最終的に法科を選んだのは何故ですか?

家族からの助言じゃな。なかでも兄の存在が大きかった。兄も杵築中学から五高、東京帝国大学へと進んだんじゃが、それは常に私の二学年先を歩む“先輩”でもあった。私を叱咤激励しながら、進学先の学習環境や勉強方法、立身出世の教訓などを示してくれる“道標”でもあった。そんな兄が「葵は決して法科に不適な人物ではない」と断言してくれたことは非常に心強かったね。

熊本で出会ったかけがえのない恩師

───重光さんであれば、どんな道に進まれても大成するでしょうが、この選択は日本にとってもっとも理想的だったと思います!

熊本の第五高等学校に進学した私は、1年目は学生寮の「習学寮」で生活したが、2年生になってからは下宿生活を始めた。その頃には、既に外交官を目指す気持ちが固まっていたね。大学卒業後に待ち構える外交官試験、その先の外交官としての活躍を見通すと、語学の習得が重要な課題だと実感したのもこの時期じゃった。

───勉強に一層力が入った時期ですね。

そうなんじゃが…実は2度目に住んだ下宿が繁華街に近く、人の出入りが多くて騒々しいところでね。勉強するには落ち着かない最悪な環境だったと、転居したことを後悔したんじゃ。しかし、そう思ったら逆に、「勉強に集中しなくては」というモチベーションが高まってね。この苦境を乗り越えたのは大いに自信につながったというわけじゃ(笑)。

───私だったら、誘惑に負けてしまいそうですが、さすが不屈の重光さんですね! ハーン先生との出会いもその頃ですか?

私は2年生からハーン先生の授業を受けるようになり、3年生からは先生が住む外国人教師の官舎に書生として住み込むようになったんじゃ。先生に代わって手紙をしたためたり、身辺の世話をしたりするなかで、ドイツ語の習得も深められた。ところが翌年の4月、先生は病気治療のため学校を辞職して本国・ドイツへ帰国することになってな、私は先生の帰国準備にあちこち走り回った。帰国船が出航する長崎にも見送りに行ったんじゃよ。

───それは寂しかったですね

私はハーン先生が帰国した後も、先生がいた外国人官舎に住み続けた。卒業を控えたクラスの長でもあったから多忙な日々を送っていたが、ぽっかりと心に穴が開いてしまった気分じゃった。学校の裏手にある龍田山に登って、楽器を奏でながら先生と過ごした日々を回想したこともあった。私はハーン先生との生活を通して語学力は格段にレベルアップし、外交官になる夢への手ごたえも感じられた。恩師であるハーン先生との出会いは、重要なターニングポイントだったといえるな。

外交官デビューが決まり故郷・杵築は大騒ぎ

───東京帝国大学に進学してからは、いかがでしたか。

希望と期待に胸を膨らませながら上京し、東京では兄も近くにいた。しかし大学時代は姉の再婚、妹の病死といった家族の問題、学資のやりくりといった経済的な問題で心労が重なり、体調を崩したこともあった。それでも卒業後の1911年に受験した外交官試験に一発で合格できたんじゃ。

───聞くところによると、首席合格だったらしいですね、百人を超える受験者がいたにも関わらず!

外務省から合格通知が届くと、すぐに養父母に電報で伝えた。手紙も書いて、これまでの支援に対する感謝の思いを伝えたよ。

───地元・杵築は大フィーバーだったのでは。

合格を受けて上京する当日、母校の八坂尋常小学校にはたくさんの方がお祝いと激励の言葉をかけてくれた。杵築駅では溢れんばかりの人だかりとなり、「バンザーイ」の掛け声で見送ってくれた。「外交官として精一杯活躍しなければ」と、身の引き締まる思いで旅立ったね。

未来を担う故郷の若者たちに託す言葉

───その翌年にはさっそくベルリンに赴任され、外交官人生がスタート。1919年のヴェルサイユ条約調印にも参加されていますよね。

随行員の一人として任に就いたんじゃが、本格的な国際外交デビューに胸が高まったね。その翌年に帰国した時、私は母校の杵築中学に条約の関係書類を寄贈した。母校の先生や後輩たちに、実績を積むことができた充実感、私を育ててくれた感謝の思いを託したんじゃ。

───国連加盟演説の直後にも母校を訪問して、「志四海」という言葉を揮毫されました。

「四海を志す。 志が全世界を覆う。 志を全世界に及ぼす」という意味じゃ。私は国と国の問題を、武力ではなく外交努力による解決に尽力し、平和を希求するという強い信念を持っていた。そして、その志を外交官・政治家としての人生に捧げてきた。これから国際社会に生きる後輩たちに、ぜひとも世界を覆う大きな志をもって活躍してほしい。自分を支えてくれる故郷への感謝を忘れることなく、夢の実現に向けて努力を積み重ねてもらいたいと考えておる。

───重光さんは、大分県人の誇りです。幼少期を過ごした杵築市では「無迹庵(むせきあん)」、墓地がある国東市安岐町には「山渓偉人館」があり、貴重な品が展示されています。A級戦犯に起訴され、心外ながら巣鴨プリズンに収容されましたが、出所後は別府の「レストラン東洋軒」の創業者・宮本四郎さんからは別荘「友情の家」をプレゼントされました。

ありがたいことじゃな。大分のことは、どんな時も忘れたことがない。少年期を過ごした杵築での思い出、重光家の本家がある安岐町、外交中に右脚を無くした時に怪我の療養でお世話になった別府…。これからも穏やかな平和が続くことを願ってるよ。

東洋軒の宮本四郎料理長とは深い親交があり、 出所後には渾身の料理をふるまわれた
療養に専念した別府市。海地獄での記念写真(写真提供:レストラン東洋軒)

 

 

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