ピカピカのおじさん油屋熊八と巡る!別府観光ツアー
ぴかぴかのおじさん油屋 熊八


大分県別府市は、日本でも屈指の温泉郷として知られています。しかし、昔の別府は温泉をうまく活用できず、今のような賑わいはありませんでした。
そんな中で、観光地としての別府をPRしたのが、油屋熊八です。自身のハゲ頭を指して子供たちから「ぴかぴかのおじさん」と親しまれる一方で、「別府観光の父」とも呼ばれる熊八は、どんな人物だったのでしょうか。別府駅前に建つ油屋熊八と小鬼くんのペアが、熊八にゆかりのある地を旅仕立てで紹介していきます!
また、記事の後半では熊八が行ったユニークなPR活動も紹介。斬新なアイデアに富んだ熊八の行動が、大分県に住む若い人たちの人生に役立つヒントを与えてくれるかもしれません。
①旅の出発点は別府駅!

油屋熊八
やあやあ、読者のみんな!私が「ピカピカのおじさん」こと、油屋熊八だ!
大分県の、特に別府に住む者なら、駅前に建つ私の像を見たことがあるだろう。
小鬼くん
ピカピカのおじさん!今日は別府の観光案内に連れてってくれるんでしょ?
ぼく、あんまり詳しくないから、おすすめの場所を教えてよ!
油屋熊八
そうじゃな。では、さっそく連れて行ってやろう!まずは、私たちがいる「別府駅」からスタートだ。
ここを通る日豊本線は、北九州の「小倉駅」から「鹿児島駅」まで続いておる。おかげで、県の内外からも別府に訪れる者が多くなった。
小鬼くん
駅前には、ぼくたちがいるだけじゃなく、源泉かけ流しの「手湯」もあるよね。

でもね、もっと別府を楽しみたいんだ!
早く次に行こうよ!
油屋熊八
手湯を侮るではない!その昔、この手湯は別府駅の中にあり、蒸気機関車で汚れた手を洗うために用意されたんじゃ。
まぁ、確かにそろそろ行くとするか。
②亀の井ホテル(亀の井旅館)は熊八が創業した宿だった

油屋熊八
よし!次は、現在の別府で一番の高さを誇る「亀の井ホテル」じゃ。
小鬼くん
観光地じゃないんだね(笑)。
油屋熊八
そう言うでない。今の亀の井ホテルは、1912年に創業した亀の井旅館が前身となっておる。
しかも、創業者は私だ!

小鬼くん
へー。
おじさんが創業者なら、なんで「油屋旅館」にしなかったの?
油屋熊八
“亀の井”というのはな、別府で縁起の良い名前だったんじゃ。ほかにも鶴田や梅園、竹瓦なんてのも縁起が良いな。
小鬼くん
そういうことだったんだ!
でも、写真をみると、昔は今よりも小さな宿だったんだね(笑)。
油屋熊八
今と比べれば小さいが、当時は別府で一番大きな宿泊施設だったんじゃぞ。最初は2部屋しかなかったが、後の亀の井旅館は客室が72室、内湯が19箇所を備えるまでに成長した。さらにはお客様に何かあったときのために、看護婦にも常駐してもらっておったのぉ。
小鬼くん
じゃあ、お客さんもけっこう来ていたんじゃないの?
油屋熊八
私が現役の頃は民間で最初の観光協会 である「別府宣伝協会」を立ち上げて、別府のPRに尽力したんじゃ。
外国船の誘致をしようと横浜港まで行き、直談判したこともあった。その甲斐もあって、海外からの観光客も増えたんじゃぞ。
1926年には、450人の観光客を乗せたカナダ太平洋汽船 が来たこともあったのぉ。
小鬼くん
おじさんって、意外とやり手だったんだね!
③別府を訪れるお客さんは港までお出迎え

小鬼くん
おじさん、今度はどこに連れて行ってくれるの?
油屋熊八
次は海じゃ!

小鬼くん
え!?ここって、ゆめタウンの裏の別府楠港だよね?
港だったら、別府港が栄えていると思うけど、なんでここに連れてきたの?
油屋熊八
今日は私が主役だからな。私の思い出深い地を巡っておるのじゃ。
1873年に大阪との航路が開かれたんじゃが、別府楠港 ができた当初は波が荒れると乗客が下船する際に危険を伴っておった。
小鬼くん
せっかく観光に来たのに、危ないってやばくない?
油屋熊八
そうなんじゃよ。「旅人を懇ろにせよ*」の考えから毎回港まで迎えに行っておったんじゃが、上陸時に怪我でもされたらたまらんと思っての。
そこで、私はひらめいたんじゃ。船が安定して接岸できるよう「楠港に専用の桟橋(さんばし)を作ろう」とな!

小鬼くん
宿の仕事をしつつ、PR活動とかインフラを整えていたなんて、知らなかったよ。
ちょっと尊敬してきた!
油屋熊八
まったく、私を何だと思っていたんじゃ。
ちなみに、別府楠港から陸側に まっすぐ進めば、亀の井旅館もあった。港から宿までの導線も完璧だったんじゃよ。
小鬼くん
おじさんって、チャッカリしてるね〜(笑)。
* 「旅人を懇ろにせよ」は、『新約聖書』に書かれている言葉。35歳で渡米した熊八は、このフレーズに感銘を受けて以来、「旅人をもてなすこと」を大切にしている。
④地獄めぐりも熊八が始めたPR事業

油屋熊八
小鬼くんの態度は気になるが、ぼちぼち観光していこうかの。
別府楠港の近くを通る国道10号線を北上し、「九州横断道路入口」を左折すれば次の目的地じゃ。
小鬼くん
待ってました!でも、なんで今回は道を詳しく説明してるの?
油屋熊八
実はな、別府から長崎まで続く九州横断道路「やまなみハイウェイ」の原型となった観光自動車道を発案したのが私だったんじゃ。
当時は一部の者だけが車に乗っておったが、全国に自動車が普及 するのも見越していたんじゃよ。
小鬼くん
でたっ!自慢!!
おじさんがすごいのは分かったから、早く案内してよ!
油屋熊八
そうじゃった。次は「海地獄」じゃ。

小鬼くん
「地獄」っていい響きだね!
今の別府観光って、地獄めぐりが有名だよね?
油屋熊八
さすが、小鬼。地獄には興味津々じゃな。
この地獄めぐりも、元を辿れば私のアイデアなんじゃよ。
小鬼くん
え!?地獄めぐりもおじさんが始めたの?
油屋熊八
地獄めぐりを始めた当初は人力車を使っておったが、亀の井自動車を設立してからはバスで案内するようになった。
地獄めぐりでは女性バスガイド付きのツアーが盛況だったが、これは日本初の試みじゃった。

小鬼くん
美人のバスガイドって、おじさん、やらしいね(笑)。
でも、なんで地獄めぐりの中でも「海地獄」に来たの?
油屋熊八
この海地獄にある展望台は、別府観光や地獄めぐりを知るのにおすすめなんじゃ。
展望台からは美しいコバルトブルーの温泉が見えるだけでなく、別府観光の歴史や別府の温泉にまつわる資料が展示されておる。
小鬼くん
まさか、そこにおじさんのことも紹介されてたり?
油屋熊八
もちろんじゃ!ただな、基本情報からあまり知られてない豆知識まで、分かりやすくまとまっておるのは、私が現役の頃にはなかったものじゃ。
今の別府市民も頑張っておるんじゃのぉ。
⑤別府の奥座敷「由布院」を広めた油屋熊八

油屋熊八
次は、少し遠出するぞ!
目指すは別府の奥座敷とも呼ばれる「由布院」じゃ!
小鬼くん
由布院!いいね!
何があるのかあんまり分かんないから、行ってみたかった!

油屋熊八
由布院の中でも金鱗湖周辺の土地は、大阪の資産家に出資してもらって別荘を建てた。もともと、大阪は私が米相場*1の事業を始めたこともあり、出資のツテがあったのは幸いじゃな。
この別荘は友人の中谷巳次郎*2が数寄屋風の宿を設計し、高価な骨董品を用意してくれたおかげで完成したのじゃ。
当時は県の内外から著名人を招いてもてなしたものだ。
小鬼くん
おじさん、相場師だったの?
あ!由布院に「亀の井別荘」ってあるけど、ここでもてなしていたの?
*1 米相場は、相場の異なる米の価格を活用して利益を得る「先物相場」のこと。相場師として大阪で財を成した油屋熊八は「油屋将軍」とも呼ばれていた。
*2 中谷巳次郎は村役人である大庄屋の家に生まれるも、建築や造園といった趣味にお金を使い過ぎてしまい、別府に逃げてきた人物。しかし、彼と意気投合した熊八が「別府観光の父」と呼ばれるようになったのも、彼のような仲間がいたからこそだろう。

油屋熊八
正解じゃ!
別府は観光地として申し分ない魅力を持っておるが、さらにその奥に見所がなければ、一流の観光地になりえん。
九州横断道路を考えたのも、観光地に奥行きを持たせる狙い がある。
小鬼くん
へー、そうだったんだ!
別府から由布院まで、けっこうな距離があったけど、道路の整備とか大変だったんじゃない?

油屋熊八
そうじゃなぁ、当時の道は落石だらけだったが、石を割りながら由布院に突き進んだこともあった。
別府観光のために私財もかなり使ったわ(笑)。じゃが、それが今の別府観光につながっておると思うと、感慨深いものがあるのぉ。
小鬼くん
なんか、年寄りみたいなこと言うね(笑)。
でも、今日は別府のことをおじさんに案内してもらったけど、別府だけじゃなく大分にはまだまだ魅力ある場所も多いんじゃない?
油屋熊八
そうじゃな。
「旅人を懇ろにせよ」という私の考えを受け継いで、おんせん県おおいたを盛り上げようと動いている若者はたくさんおる。
温泉以外にも山や海といった自然があふれる土地だからこそ、アイデア一つでさらに賑わいを見せると信じておる。
かつて、私は大阪で事業に失敗したこともあるが、別府の観光に貢献できたのは多くの仲間たちに支えられたからじゃ。
観光は人ひとりでは成り立たないもの。人がいるからこそ楽しさが生まれ、さらには一緒に協力してくれる者がいるからこそ、やりがいも可能性も広がる。
ぜひ今の大分県民にもチャレンジ精神を持ち、自分だけの人生を謳歌してもらいたい。
油屋熊八の経歴
1863年に愛媛県宇和島村(現宇和島市)で米問屋の長男として生まれ、30歳の時には大阪の米相場で財を成した。当時は「油屋将軍」とも呼ばれていたが、日清戦争の頃に事業で失敗し、全財産を失う。
その後、妻を別府に残してアメリカで3年の歳月を過ごした熊八は、現地の協会でキリスト教の洗礼受ける。帰国後も相場師としての復活を試みるもうまくいかず、妻が身を寄せる別府へ移ることに。
別府では亀の井旅館を創業したほか、由布院の亀の井別荘、亀の井自動車などを設立。コラムで紹介するユニークなアイデアだけでなく、仲間がいたからこそ「別府観光の父」と呼ばれる存在になった。1935年に最期を迎える。
【ミニコラム】PRの天才・油屋熊八が行ったユニークな宣伝方法
大分が「おんせん県」と呼ばれるほど観光地として人気を誇っているのは、油屋熊八が行ったPR活動があったからこそです。
温泉マーク「♨︎」を考案したもの熊八と言われていますが、ここでは彼の行った斬新な宣伝方法をご紹介します!
◎富士山に宣伝用の標柱をぶっ立てた

現在は見られませんが、油屋熊八が別府への観光客誘致に尽力していた頃、熊八の仲間の一人である梅田凡平が富士山の山頂に標柱を立てたそうです。
そこには「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」と書かれてあり、富士山以外にも各地に建てて回り別府のPRに尽力しました。
日本一の山で宣伝するなんて、今ではなかなか考えられないアイデアですね!
◎飛行機をチャーターしてビラ撒き

1927年、大阪毎日新聞は「新日本百景」の人気投票を行いました。この投票を「別府のPRに生かせる!」と考えた油屋熊八は、大量の葉書を購入し別府市民の協力を得て、みんなで別府に投票します。そして、別府温泉は見事に1位に輝きますが、熊八の行動は止まりません。
なんと、水上飛行機をチャーターし、「当選御礼!別府温泉!」と書かれたビラを大阪や神戸でばらまいたのだとか。
やることなすこと全てが規格外ですね。
◎手の大きさを競う大会を開催!

油屋熊八が67歳となった1931年のこと。亀の井バス20周年に合わせ、手のひらのサイズを競う「全国大掌大会」が亀の井ホテルで開かれました。
どうやら、熊八自身が手のひらのサイズに自信を持っており、自分の体も観光に生かしたのだとか。これは今の小学校の教科書にも計さされており、別府観光の父というよりも、「日本観光の祖」と言っても過言ではないでしょう。
1935年、73歳でこの世を去った熊八だが、私財を投げ打ってまで別府観光に尽力した彼の魂は、今も大分県民を見守ってくれているのかもしれません。