クセになるグルーヴ感♪で
日本の音楽シーンを支える


SNS、ストリーミング、サブスクリプションと、ここ数年で音楽を取り巻く環境は劇的に変化してきました。ポピュラー音楽の現場に目を向けると、K-POPが海外市場で成功を収める一方で、日本の昭和シティポップが海外のZ世代から注目を集め、日本のアニメソングも安定した人気を誇っています。数多くの楽曲を提供してきた日田市出身のコモリタミノルさんに、これまで辿ってきた道程をトレースしながら、未来の音楽シーンについてお話を伺いました。

───生まれは日田市ですよね。

そうですね。ただ、父親が高校の英語教師をしている転勤族で、幼い頃の記憶しかないんだけど、坂道を登った場所にある2階建の狭い社宅はうっすらと覚えています。日田市の観光大使に就任した年に「日田川開き観光祭」で市民の皆さんの前で僕を紹介してくれたのですが、その時、近所に住んでいたという女性から声をかけられましたよ。「あなたが小さい時、お母さんと仲良くしているところをよく見かけたよ」と(笑)。
───その後、再びお父様が転勤され、福岡県甘木市へ引っ越すわけですね。

これまた狭い社宅でした(笑)。甘木での幼稚園時代に、母親の意向でピアノを習い始めたんです。音楽と向き合ったのは、これが最初ですかね。ただしその頃の僕は、ピアノを習うのが嫌でたまりませんでしたね。車で家までお迎えが来るんですが逃げ回ってました(苦笑)。しかも家にはオルガンしかなかったから鍵盤のタッチが違う。1年で辞めてしまい、二日市(福岡県)に転勤した先でもピアノの個人レッスンに通ったけど、すぐに辞めちゃいました。
───どんな曲が好きでしたか。

家にはサンサーンスとか、学校の授業に出てくるようなクラシックの小曲を集めたレコードがありました。母は栄養士でしたが声楽の経験もあり、音楽が好きだったんですよ。クラシックだけでなく映画音楽とか、ジャズとか。小学5年の時に民放のFM福岡が開局したのですが、当時の家庭によくあった家具調ステレオで聴いていました(笑)。その時に流れていた曲で記憶に残っているのが、ジリオラ・チンクエッティの『雨』とか、ビートルズの『イエスタデイ』、フランク・シナトラとか洋楽ポップスですね。


───中学、高校に進学して、バンドに入ったりしなかったのですか。

当時は人と交わるのが苦手な生徒で、どこかのバンドに入ることはなかったですね。大学は山口大学の農学部に進学しました。最初はチェロをやってみたくてオーケストラに入ったんですが半年で辞め、そうこうしているうちに軽音楽部の知り合いから「ボーカルが辞めたからやってくれないか」と声を掛けられました。じゃあ練習しなきゃと教育学部のピアノ棟でピアノを夜遅くまで弾いていたんです。最初はビリー・ジョエルのコピーから入り、そこからだんだん面白くなってきて、「これなら曲も作れるじゃん」と大学3年くらいから作曲に手を広げ始めました。
───ということは本格的に音楽を始めたのは20歳前後からってことですか。意外と遅いですね。

比較的遅いかもしれないですね。で、楽器店で弾き語りしていたら、お店の人からバンドでコンテストに出てみないかと言われ、軽音楽部のメンバーを集めて参加したんですよ。それがポプコン(ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト)山口地区大会でした。バンドでは学園祭のステージに出演したこともあり、山下達郎さんの「RIDE ON TIME」を歌いました。バンドメンバーがそれぞれやりたい曲もまじえ、桑名正博さんやエアロスミスなど、なんでもアリのステージでした(笑)。
───コモリタさん自身は、オリジナル以外はどんな曲を好んで弾いていましたか。

原田真二さんやバリー・マニロウですね。ニューミュージックの新しい波がやってきた頃で、今ブームの80年代ポップス全盛期。音楽理論をマスターしていたわけでなく、ピアノの演奏も下手だったけど、こんな演奏をしたいという気持ちを押し出すと指が勝手に動いていましたね(笑)。

───その後、九州大学大学院へ進学されましたね。

実をいうと大学院で勉強がしたかったわけではなく、もう少し音楽と向き合いたかったんです。まだ本格的に音楽を始めて2年だったから、自分に何ができるかを考えるための時間稼ぎというか…。大学院では食料化学工学科でバイオケミストリーの研究をしていました。もちろん並行して音楽活動も続けていて、第24回のポプコン九州大会でグランプリ。さらに院生2年の秋も第25回ポプコン九州大会で2年続けてグランプリを獲得しました。既にこの時、明治乳業研究所への就職が決まり、修士論文まで書き終えていました。でも僕は翌年5月に開催されるポプコンつま恋本選会への出場を選び、そこで全国でのグランプリを受賞したんです。
───大手企業に就職するのではなく、音楽を選んだのですね。

おかげで助教授や親からめちゃめちゃ叱られました。ヒドいヤツですよね〜。ヤマハ福岡のプロデューサーからも、「就職した方がいいよ」って言われました。この方はチャゲ&飛鳥や長渕剛さん、クリスタルキングの皆さんを発掘してきた名プロデューサーで、僕にも最初に目をかけてくれた方です。
で、つま恋本選会ではヤマハ本部が用意したオーケストラバンドと演奏することになってました。ところが僕の曲を数回のリハーサルでこなすには難しいだろうという話になり、九州地区担当の判断で地元・九州でまとめようということになりました。急きょ熊本のバンド・ALPHAにサポートで入ってもらい、『ドキドキTalking』という曲で入賞を果たしました。翌年の1983年には「小森田実&ALPHA」として再び『フォリナー』という楽曲で挑戦したところ、グランプリを獲得できたんです。

『フォリナー』


───いよいよプロデビューを果たしたのですね。

その後、バンドを脱退してソロになり、1989年にシンガーソングライターとして再デビューしてアルバム『SQUAL』をリリースしました。活動拠点も東京に移し、同じポプコン出身の松井五郎さんや山川恵津子さんが当時所属していたヤマハの作家枠に籍を置き、アドバンス(前払い)制で印税契約をしました。そこからアーティストへ楽曲を提供するため、かなりの数のコンペ(楽曲採用するための競争)に参加しました。そのなかから森川美穂さんのデビュー曲『教室』が採用され、作曲家デビューを果たしました。その後、森川さんに書いた『フルフェースとサマーディ』という曲のレコーディングで、たまたま居合わせた(チャゲ&飛鳥の)飛鳥さんから「彼は才能があるね」と評価してもらえたのはうれしかったですね。
───かなりの楽曲数を提供されていますね。

ヤマハを皮切りに所属事務所は転々としたのですが、おかげでいろんな方に曲を書かせてもらいました。
aikoさん、松田聖子さん、深田恭子さん、観月ありささん、国生さゆりさん、南野陽子さん、安室奈美恵さんとMAXがユニットだった時代のスーパーモンキーズ、三浦大知くんや満島ひかりさんが在籍していたFolder、そして嵐やV6といったジャニーズグループの楽曲など、名前をあげるとキリがないですね。80年代から90年代にかけて日本の音楽シーンの転換期でもあり、昔ながらの“歌謡曲”という感じではなく、僕なりに“今”という時代を解釈したうえでの楽曲を提供してきました。

ベストアルバム『GOLDEN☆BEST』
───SMAPの『SHAKE』は1996年でしたね。コモリタさんの真骨頂は中毒性のあるグルーヴ感だと私は思っていて、勝手に「コモリタ・グルーヴ」と呼んでいるのですが、『SHAKE』はそのド真ん中の名曲ですよね。

プロデビューして約10年かけて、やっと日の目を見た曲です(笑)。森且行くんが脱退して新しいSMAP像を描こうとしていた時期に、アッパーで楽しくノレる僕の曲がハマったんでしょう。この曲のアレンジはCHOKKAKUさんが担当しました。プロデューサーさんから「デモテープのアレンジでオケを用意してください」と僕も言われたのですが、どうも張り切り過ぎてしまい、デモ音源よりコアなアレンジにしてしまったんですね(苦笑)。結局ブラス部分はそのまま使われたんですが、CHOKKAKUさんのアレンジは歯切れもいいし音色も聴きやすくてよかったと思います。
───SMAPでは『ダイナマイト』『たいせつ』『らいおんハート』『BANG! BANG! バカンス』と多数採用されていますが、いずれのコンペも難関だったのでは。

恐らくSMAPだと数百曲くらいの参加曲があって、その中から1等賞にならなければならないんです。2番目だとボツになっちゃうんですよ。
───「2位じゃダメなんです」ってヤツですね(笑)。ところで今日に至るまで、曲の作り方も変わってきました?

上京してまもない頃に、弾き語りのデモテープを打ち込みによるDTM(デスクトップミュージック)で作りはじめました。ところが当時は、いざ聴き返してみるとリズムがズレていたりして、納得できないものが多かったんですよ。でも『SHAKE』の時はシンセサイザー等の機材が充実し始めた時期だったので、デモ段階から自分が描いていた表現に近づけられることができるようになりました。依頼される楽曲の幅も広がりました。


───作曲家から見て、シンガーとしてすごいなと思った方は?

全員がスタジオでの接点があるわけではないですが、松田聖子さんはさすがだなと思いましたね。最近ではBeverlyさんやボーカルグループのDa-iCEなどは楽々と歌いこなしてくれるので、表現力や音域を気にしたりせず、自由に作れて楽しかったです。
───ネットの普及で、音楽に携わる人たちの環境もずいぶん変わってきました。先日はCD販売からサブスクによる音楽配信が主流になったことに対する女性アーティストのツイートも話題になりました。

確かにサブスクはキツいですね。CDに比べてアーティストの印税収入も激減しています。これまで乗り気でなかった国内のレコード会社も取り組まざるを得なくなり、握手会等で販売を伸ばしていたアイドルグループも大変だと聞いています。CDの売り上げにこだわって成果を出してる数少ないアイドル事務所も存在しますが、必ずしもすべてのグループが爆発的に売れているわけではありません。そういう意味では、国内の音楽ビジネスは確実に次のステージに入ったと認識しています。僕自身も地方から何か発信できないかと、大分で仕掛けた案件もありました。
───ご当地アイドル『SPATIO』への楽曲提供や、大分発シンガーの育成がそうですね。海外に目を向けると、K-POPブームに関してはどうお考えですか。

洋楽のいいところをキチンと取り入れている反面、フレーズの塊を詰め込んでいるだけの楽曲はなかなか印象に残らないのではと感じます。J-POPが内包しているストーリー性みたいなものを取り入れれば、後世に残る歌がもっと生まれるかも知れません。
───日本が世界に誇れるカルチャーでもあるアニメ市場はいかがですか。

アニメに関しては『マクロスΔ』で声をかけていただき、楽しみながらも必死で作りました。ただしあくまでも「アニメありき」で、音楽単体で取り組むわけにはいかないという側面もあり、勉強になりました。

『ハピハピ♡ルンルン』
───最近は米津玄師さんやYOASOBIのAyaseさんなどボカロ(ボーカロイド)からアプローチしてくるクリエイターも現れました。

面白いと思います。デジタル技術とネットの進化により、ストリーミングで日本から世界へ容易に発信できる環境は整ったといえます。最近僕がトライしているのはAIボーカルです。「Synthesizer V」という歌声合成ソフトのクォリティが格段に上がり、AIで生成された歌声がまるで人間が歌っているようにリアルな表現力を発揮するのです。
───え、そんなことが出来るんですか!

僕はこれに「Chat GPT(チャットGPT)」を組み合わせて英訳させた歌詞を作り、「もっと感情を豊かに」「そこはビブラートを効かせて」と歌唱指導のような “EDIT”をしながら作り込みをしていき、ネイティブの発音で歌っている作品を仕上げます。さらにそこから曲の出来栄えを聞くだけでなく、この曲はどういう売り方をすればいいかマーケティングの手法まで提案してもらい、そのうえでストリーミングにより世界へ発信するのです。ちょっと聴いてみますか?
(ここでスマホを取り出し、「Kevin」と言う男性ボーカルソフトによるデモ曲を視聴)
───す、すごい!! もはや人間と区別がつかないレベルじゃないですか!!

現時点では英語で歌えるAI 男性ボーカルはまだ3人だったんですが、今後はバリエーションが増えていくでしょう。実際、このボーカルを使ったプロ作家によるコンピレーションアルバムもリリースされますし、プロ・アマ交えてのアルバムになる予定です。
───面白そうですね。

このプロジェクトとは別に、2020年には僕の声と自作の映像で『Bunny Bunny』という作品をストリーミングで流してみました。すると日本では1日数人程度なのに海外では1日100〜200人に聴かれていて、国によって反応が違うことに驚きました。海外デビューがどうとかの話を超えて、これから音楽業界は予測不能の面白さに満ちていると思います。

https://linkco.re/TAdV59fs?lang=ja


コモリタミノル公式サイト
https://comorita.com/#/