表現を楽しむOitan

世紀の発明「萌え」カルチャーから
美人画の新境地を切り拓く

2023.03/28

江戸時代の浮世絵を源流に、女性をモチーフにした絵画は西洋画のそれとは一線を画し、「美人画」という日本固有のジャンルを確立しています。その美人画の世界に地殻変動を起こしている画家が、津久見市出身で大分県立芸術短期大学付属緑丘高校(以下「緑丘高校」)卒業生の池永康晟さんです。彼の作品は国内ばかりかアジア、ヨーロッパでも人気を集め、美術の教科書に紹介する国もあるほど。2023年初頭に大分市美術館で開催された『BEAUTY 培広庵コレクション×池永康晟』を終えたばかりの池永さんに、美人画の現在地について伺いました。

  

3歳で“自我の目覚め”を体験する

───池永さんは幼少期から美術に親しむ環境にいたのですか。

いいえ、父は小野田セメント(現・太平洋セメント)勤務の会社員で、平屋の社宅住まいでした。父は随筆家になりたかったらしく、よく社内報に寄稿していました。父は私を小説家にしたかったようで、私の名前は、小説家の「川端康成」から命名したと聞いています。

───個展で作品に添えられた短文も気になっていましたが、もともと小説家の才能もあったとか?

私はあまり活字が読めないというか(笑)、音楽も文章も頭の中で図形にしないと理解できないので、登場人物が3人以上になるともうこんがらがってしまうんです。昔は最初に登場人物の説明があったでしょう? 今はそれがないので読んでいる途中で誰が誰なのか、ページを行ったり来たりしてもうお手上げです(笑)。

───絵描きになると意識しはじめたのは?

3歳です。当時の記憶が順番に4つあって、最初は私が転んだ時に飼い犬(ぺス)に覆いかぶされ泣いた記憶。次は団地へ引っ越すため犬が飼えなくなり、引き取られるぺスを泣いて追いかけた記憶。それから新しい団地で造成中だったジャングルジムを眺めていたら、職人さんから危ないと追い払われた記憶。最後が団地の砂場で遊んでいて、ふと顔を上げると、さっきまで明るかった空が、夕方になりだんだん鉛色に変わっていって、それを見て驚いた記憶です。自分とは関係なく世界は動いている、自分の内側と外側は違う世界なんだと気づいたんですね。いわゆる“自我の目覚め”です。そこで自分は何者なのかと考えたところ、“絵を描く人”なんだと思ったのです。これがカン違いの始まりでした(笑)。

みかんとセメントのまち・津久見から絵描きを目指す

───よく絵を描いていたのですか。

よくチラシの裏に描いていました。小学校に入ると手塚治虫に憧れ漫画家になりたいと思うようになりました。兄は少年チャンピオン、姉はちょっと大人びた漫画で劇画の『愛と誠』とか『実験人形ダミー・オスカー』とかを読んでいて、その影響を受けました。

───これまた小学生にしては早熟ですね。

中学校進学後は美術部に入って油絵を描き始めました。父親に強請ったピッカリコニカというコンパクトカメラを学校に持って行き、初恋だった美術部の先輩や先生や校庭を撮って、それを見て絵を描いていました。

───そこから緑丘高校へ進学するのですね。

津久見市は漁師町でもあるので進学の時に先生から、船に乗るか津久見高校に行くか訊かれるんです(笑)。私は三者面談で「津久見高校の美術部に行く」と答えたんですが、「美術がやりたいなら緑丘高校がある」と教えてもらって、受験を決めました。横にいた母親は、私が即決してしまったので慌てていましたが(苦笑)。

───津久見から大分市の緑丘高校まで通うのは大変だったのでは。

毎日2時間以上かけて通っていました。電車の中でダリの自伝や美術書を読み耽りながら通学しました、そこで一生分の美術書を読みました(笑)。緑丘では日本画をやりたかったのですが、カリキュラムのタイミングが合わず、結局学ぶことはできませんでした。3年生の専攻を選ぶ時期に絵具を塗り散らす私の描き方を油絵の先生が気に入ってくださって、油絵を専攻しはじめました。当時の美術教育はセザンヌが至高とされた時期でしたから。

───大分市美術館での展覧会では卒業制作を展示されていましたね。

卒業制作は、私の中では特異な画風なんです。最初は私ともう一人だけ100号サイズの絵を描いたのですが、直前になって「どうも卒制は50号らしい」となり(笑)、慌てて50号に描きなおしたものですから、なんだか簡素であまり満足のいく出来ではありませんでした。それでも作品を見た卒業生から「日本画的で良く出来ている」と評判がよく、これが現在のルーツになっているのか、さてどうなんでしょう。

大分市美術館で開催された『BEAUTY 培広庵コレクション×池永康晟』のチラシ

───卒業制作の横に高校時代の池永さんの写真が添えられていましたね。なかなかの美少年でしたし、結構モテたでしょ。

男子生徒が少ないからモテましたよ。今も(美少年の)面影は残っている筈ですよ(笑)。

美大進学の夢破れ「エコール・ド・トーキョー」暮らしへ

───緑丘高校では美大を目指していたんですよね。

最初はそうでしたが、学んでいるうちに自分の実力がわかってきたんです。上級生が持ち帰る東京の予備校の木炭デッサンを見て、次元の違いに愕然としました。3年になって私も東京の夏季講習に行かせてもらったのですが、そこでいよいよ自信が無くなりました。高校も辞めたい、それなら働かないといけないと思って、電話帳を調べたら県内に「肖像画家」が二人いたんです。さっそく尋ねて「弟子にしてください」と言ったら「帰りなさい!」と叱られました、もう行き止まりです。

───結局、美大もあきらめたのですか。

受験もしませんでした。それでも東京に行きたかったから、多摩美大の付属専門学校だった多摩芸術学園(1992年閉校)の写真科に進学しました。“多摩”と付いていたので母親は美大だと勘違いしたふりをして許してくれました(苦笑)。でも結局、そこは1年しか続きませんでした。当時はまだ写真は徒弟制の色濃い時代で。暗室実習で焼いた写真を先生に見せて出来栄えを訊かれるんですが「少し甘いんですかね?」と答えると、「甘いとはどういう意味だ!」と脛をガンと蹴られる。で、また暗室で焼いてそれを見せて脛をガンと…。
ああ、なんて世界に来てしまったんだと。

───今ならちょっとヤバそうですね。

専門学校を辞めてからは下宿からも逃げだして、安アパートで新聞にくるまって寝たり。でも絵だけはとにかく描いていました。ムサビ(武蔵野美術大学)の周りに緑丘高校の卒業生の緩いコミュニティがあってそこに辿り着きました、学生も無職もいて皆お金がないんだけどなんとか融通しあっていました。

───まるで放浪画家が集まる東京版「エコール・ド・パリ」ですね。

緑丘高校の通学中にエコール・ド・パリの本もたくさん読みましたが、なんとなくそういうところに惹かれていくんですね。この時、「アトリエを一緒に借りないか」と声をかけてくれたのが、今は九州産業大学芸術学部で日本画を教えている南 聡(みなみ さとる)くんでした。そこで、ある出来事がきっかけで日本画に転向したのです。

アイドルの自死をきっかけに日本画へ転向

───ある出来事とは?

アイドルの岡田有希子さんの自死です。ファンでした。そこで彼女のためにカスミソウを描こうと油絵で描きはじめたんですが、なかなか細かい部分が描けなくて…。その時、南くんから「そういうのは日本画でやるものだ」と言われたんです。そこから日本画の絵具を揃え始めました。

───油絵から日本画へ切り替えるって簡単にできるものですか?

難しかったですね。油絵は摩擦と粘着、日本画は重力と浸透圧で絵具を乗せるのですが、その違いに慣れなくて。膠(にかわ=ゼラチン)と紙という組み合わせも頼りなくて、とにかく絵具を擦り付けても接着しない。高校時代に読み漁った美術書を片手にどうしたら接着できるのか木板や金属に描いたりと、試行錯誤の連続でした。

私は今でも絵の具を作る時は全てグラム数を測ってデータを残します。これは写真学校の暗室作業で身に着けた習慣でもありました、嫌だった写真学校の経験も結局役にたちました。
そのあと、南くんは多摩美に行くようになって、その伝手でグループ展の誘いもあったりしましたが、きちんと発表できるようになったのは40歳ころからです。

アトリエの整理棚に収納された岩絵具。几帳面な性格が表れている

写真事務所で会得したサプライズな手法

───そのあと写真事務所に就職しますね。

上京の頃に好きだった前田真三先生の写真事務所が募集をしていたんです。倍率が100倍くらいあって弾かれたのですが、手紙を書いたり電話したりしつこく頼み込んで、そこまで熱心ならと雇ってくれました。ただし、「事務所始まって以来前代未聞のポンコツだ」と呆れられました(苦笑)。

───そ、そんな…。

まぁ、写真学校からも逃げ出しているわけだから当然です。その頃は前田先生も晩年で、撮影遠征も少なかった。私は毎日ライブラリの整理をするのですが、とても勉強になりました。ライブラリのポジには、写真集に使われた写真の前後のものもあるんです。たとえば写真集の丘陵の写真の画角の少し外に見事な一本松が立っている、普通はこの一本松は“美味しいもの”として画角に入れる筈なのに、バッサリ切ってしまっていて、ああもったいないとはじめは思ったんです。でも欲張って一本松まで写すと丘陵の美しいラインが壊れるんです、そうかこの潔さが必要なのだと。
私の美人画は、グラビア写真的なトリミング手法を取り入れています。絵画では関節や頭で切ったりするのは御法度なんですが、切り取ることで絵の中にのめり込めるような気がしています。

───確かに池永さんの美人画は、バッサバッサとトリミングされてます。

美術史的にみると寝姿を描くことも珍しいんです。覆いかぶさるような男性目線の構図は、これもグラビアの影響が大きいです。ただ、私は写真をやめたのですが「いずれ女性目線に敵わなくなる日が来る」と思ったからです。もともとカメラは数学的な道具で男性性のものでした、だんだん露出もフォーカスも現像も自動になって、いまは写真を撮る行為は女性性のものになりました。女性が自撮りでできる日常の色気に辿り着くには男性が乗り越えないといけない壁が多すぎる、ハードルが高すぎます(苦笑)。

「美人の黄金比」を持つゴクミで美人画デビュー

───美人画の処女作ともいうべき『久美子』を描いたのは、1993年ですね。

『久美子』は“ゴクミ”こと後藤久美子さんがモデルです。彼女は私にとって美人の黄金比の持ち主です。ファンクラブにも入っていました。会ったことはありませんが、もし本当に描く機会があればもう筆を置いてもいいと思っています。

最初の美人画となった『久美子』
(1993年・泥絵具・岩絵具・膠・墨・亜麻布)

───いや、置かないでください(笑)。でも、あの作品こそ池永画法の原点になっているんですよね。

そのころ母が体調を崩したのを機会に前田事務所を辞め、いったん津久見の実家に帰りました。そこで人物画を描いてみようといろいろ試したのですが上手くいかず、やけになってみかん畑の泥をミキサーにかけて地塗りをしてみたのですが、思いどおりの色が出ない。やりなおそうとカンヴァスを水洗いしたら、これが見事な肌色になったんですね。そこから10年くらい肌色のテストをして、今のスタイルに辿り着きました。

アイドルの美人画を描くことの難しさ

───元AKB48の横山由依さんの写真集『ゆいはん』への作品提供もされていましたね。

似顔絵は悪口なんですよ、平均顔から外れている個性の部分を強調しないといけない。皆が知っている人を描くというのは初めてだったので悩みました。
もともと美人画はモデルさんの個性の一歩手前で表現を止める、その先は見る人の経験で補完して貰うという画法なので、どこまで進むか戻るか苦しみました。

元AKB48・横山由依を描いた『宵支度・由依』
(2014年・岩絵具・膠・墨・金銀泥・亜麻布)

───いろんな考え方があるのですね。

あと、皆さんが知っている「ゆいはん」は、いつも笑顔ですよね。ところが美術の表現で笑っている顔ば“狂気”の象徴です。昔のアイドルは“ぽかん顔”で人気を集めていましたが、最近はワーッと笑っている顔が主流です。ゆいはんさんの澄まし顔がゆいはんさんに見えるのだろうかということも当時はもう分らなくなって…。
最近は狂気ではない笑っている顔が私なりに描けるようになったのですが、やはり美術的ではないとウケは良くないですね。(笑)。

───池永さんの美人画は花柄の服を着ている女性が多いですね。

日本画は陰影をつけないので、私は花柄模様のシワやうねりで人体を表現します。花柄だと時代性を曖昧にできますし、全面に描き込むと迷彩と同じ効果になって画面が落ち着くんです。アトリエの2階の部屋でモデルを撮影するのですが、クローゼットには花柄の服をたくさん準備しています。逆にヌードは肌の色面が多すぎて難しい、逆に思えるかもしれませんが描き込んでいない色面の方が描き込まれた迷彩部分より強いのです。でもこれからは挑戦したいとも思っています。

撮影を行う和室のクローゼットには
モデルが着用する花柄の衣装が並ぶ

「WABI」「SABI」に続く大発明「MOE」

───ところで日本画って、世界のアートでは珍しい部類なのですか。

技法的には膠(にかわ)を接着剤として描く技法は全世界にありますが、鉱物や色硝子の粉を使う岩絵具は、明治以降の日本で急速に発展したと聞いています。表現としては明治以降に西洋画が入ってきて、対抗の意味で「日本画」が生まれたとされる事が多いですが、それは間違いだと思っています。「日本絵画の技法で西洋画的な画法をやってみた」と考えるべきです。音楽で言えば三味線でビートルズの楽曲を弾いてみたイメージですかね。だから漫画やグラビアの要素なども取り入れますし、本当は日本画はなんでもアリなのです。

世界各国で発売されている画集

───自由でおおらかですね。

あと、ここに来てすごい発明が「萌え(MOE)」です。これまで美術界の美意識は「侘び(WABI)」と「寂び(SABI)」で教わってきました。基本的に「侘び」は冬で、何もかも無くなってしまって侘しい。「寂び」は晩秋で、あれほど勢いがあったものが衰えてしまって寂しい。ところが「萌え」は初春で、新しい何かが芽生えてくるイメージです。日本人が数百年ぶりに発明した新しい美意識です。

───大事件じゃないですか!

ときたま「萌え」は批判の対象にもなりますが、これは浮世絵などが辿ってきた道のりと重なります。たとえばツインテールの女の子というだけで、なんとなくその子の性格や育ちが想像されるでしょう。ところが西洋美術の図像学(ずぞうがく)だと、これがアイコンとして明確な定義がされます。

───百合であれば「純血」、犬であれば「忠誠」といった感じで、見えているものがそのまま記号化されるという意味ですね。

萌絵はそこまで決めつけず、緩やかで柔らかい。絵師とファンの「これってどう?」「いいね」というやりとりを積み重ね、新たな様式を生んでいくのです。これって高度な日本のカルチャーなんですよ。逆に時間が経過すると、あれ、何だっけとなる。
図像学は知識の図形ですが、萌絵も浮世絵も気分の図形です。
気分は時間が経つと共感が難しくなる、だから私たちは毎日「これってどう?」「いいね」を更新しないといけないんです。

───なるほど。最後に、これからの計画をお聞かせください。

「写実新世代の旗手」と呼ばれる山本大貴さんが描く洋画と、私の日本画で美人画対決展を計画しています。既に2回ほど行っており、いずれは写実vs日本画の作家が集結して、怪獣大戦争みたいな展開を狙っています(笑)。近年の美術界ではセルフコピーで大量生産できる作品が市場の主流です。比べて写実や具象の作家たちは制作点数が少なく発表の回数も限られています。具象作家たちの盛大なお祭りにして、世間に見える形にしたいと考えています。大分が手を上げてくれたら嬉しいです。

新刊の画集『君ありて千の朔月』(KADOKAWA)

池永康晟のオオイタ成分

1965年、大分県津久見市生まれ。大分県立芸術短期大学附属緑丘高校(現・大分県立芸術緑丘)卒業後、1983年に多摩芸術学園写真科へ進学。その後、油絵から日本画へ転身し、自身が染め上げた麻布に岩絵具で描く独自の技法により、新たな美人画の世界を切り拓く。2012年、第8回菅楯彦大賞展 百花堂賞受賞。個展・グループ展多数。画集『君想ふ百夜の幸福』(芸術新聞社)、『少女百遍の鬱憂』(玄光社)に続き、2023年4月10日に『君ありて千の朔月』(KADOKAWA)を出版予定。
■公式サイト
http://ikenaga-yasunari.com
■画廊「秋華洞」の本人ページ
https://shukado.com/artists/ikenaga-yasunari/

 

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