表現を楽しむOitan

お笑いモビルスーツを自在に操縦する
パンクブーブー・佐藤哲夫

2023.03/13

「お笑い第七世代」という言葉が流行語となるなど、若手の芸人たちがお笑いブームを巻き起こしていますが、芸人の世界で生き抜くのは容易ではありません。『M-1グランプリ』で優勝を勝ち取ったパンクブーブーの佐藤哲夫さんが作る漫才は、オーソドックスながらもグイグイと笑いの世界に引きずり込む緻密な構成が高く評価されており、NSC吉本総合芸能学院東京校でも講師を務めるほど。その実力を磨き上げてきた道のりを、赤裸々に語っていただきました。

  

“「高校演劇の大分豊府」の礎を作った!?

───お笑いへの関心は、いつ頃から芽生えたんですか。

小学校低学年の時、別府市から大分市の横瀬小学校へ転校してきた時にポロリと言った一言がなぜかウケて、「これはちょっと面白いやつが来たぞ!」となったんですよ。それまであまり目立つ子じゃなかったんですけど、そこから「常に何か人を笑わせることをしなければ」と思うようになり、高学年になると人前で面白いことをやるのが楽しみになりました。中学では文化祭の司会をやったし、大分豊府高校では演劇部でコントをやっていました。

───大分豊府の演劇部といえば、高校演劇の名門じゃないですか!

当時はまったくそんな感じではありませんでした。2歳年上の姉が豊府の演劇部だったんですが、僕が入学した年に部員が姉だけになってしまい、「私が卒業したら廃部になるから入部して」と頼まれたんです。顧問の先生もほとんど顔を出さないと聞いたので「これは部室で遊べるな」と(笑)、友達と4人で入ったんです。演劇などまったく興味がない連中でしたが、文化祭では何かしなければとなり、とりあえずコントをやってみたんですよ。これがまたウケて、何か面白いことやりたいという後輩が集まってきて、僕らが3年になったときには27~28人にまでなってました。

───佐藤さん達がいなければ“高校演劇の豊府”は無かったわけですね。

いやいや、僕らが卒業してからは正統派の演劇部となり、演劇に詳しい顧問の先生がついて全国コンクールでも最優秀賞を受賞するまでになっています。今や恥ずかしい先輩となった僕らが早めに卒業しておいて、本当によかったと思います(笑)。

───現在の大分豊府は中高一貫校となり、どこか自由な校風の印象があります。

当時はまだ新設校のイメージが強く、女の子の制服がカワイイと言われていたくらいですね。学校の近くに友達の親が持っているアパートの一室があり、そこが僕らの溜まり場になっていました。そこで朝まで麻雀やゲームをして、すぐ近くの立ち寄り温泉に入ってから学校へ行くという毎日でした。こういう困った生徒だったので、先生には沢山ご迷惑をお掛けしたと思います。本当に申し訳ございませんでした!

伝説の地元番組出演からお笑い芸人を目指す

───大分の高校生に人気のTV番組『スパーク オン ウェイヴ』(テレビ大分)に出演していたんですよね。

番組で『ハイスクールお笑い選手権』という企画があって、演劇部の後輩から勧められて、コンビとトリオで1組ずつ出場したんですよ。僕は『ラフィング・ハイ』というコンビで、まあヒドいドタバタコントでしたね(苦笑)。それでも優勝、準優勝を勝ち取ったんです。この時の審査員に吉本興業福岡(以下「福岡吉本」)支社長がいらして、番組収録後にスタッフの方が繋いでくれて、そこで「卒業後にウチへ来ないか」と声をかけられたんです。これは福岡に行かねばと思いましたね。

───当時の大分で、お笑い芸人を目指す高校生って少なかったのでは?

あの頃、『天才・たけしの元気が出るテレビ』(日本テレビ系)にも『お笑い甲子園』というコーナーがあって、そこで大分舞鶴高校のつだつよし君が出演して注目されていたんですよ。ならば僕も、というノリでしたね。その後、彼も福岡吉本に入ってきて、『スパーク オン ウェイヴ』に二人で出演してました。

───そこから福岡の九州産業大学に入学したんですね。

大学へはほとんど行ってません。実は福岡吉本に入ろうにも、福岡への引越し費用も生活費もない。そこで親には福岡吉本のことは黙ったままで「大学に進学したい」と頼んだんです。それまで遊びまくっていた息子が進学したいと言い出したもんだから、感激して進学資金を出してくれましたね。

───そ、そうなんですか。大学は福岡へ行く手段だったわけですね。お笑いと学生生活は両立できましたか。

授業は見事なまでに出席しませんでした。4年間で128単位は取らなきゃいけないのに、最初の1年で4単位しか取れなかったくらいです。結局1年で辞める羽目になったのですが、母親から「いつ福岡吉本を辞めるか分からないし、そうなったときに学び直せばいいから、せめて休学にして」と頼まれ、渋々オッケーしました。結局そこから一度も戻ることなく、今に至っています。本当に申し訳ないというかサイテーの人間で、親に謝ってばかりの人生なんですよ。

バージョンアップを目指して東京進出に挑戦

───今でこそ全国で活躍する芸人を輩出している福岡吉本ですが、当時はどんな感じでしたか。

博多華丸・大吉さんや、私の義理の兄にあたるコンバット満さんらを筆頭に、地元・九州で愛されるタレント事務所でした。ただしお笑いの本場・関西と違い、漫才を楽しむ文化が根付いていない土地柄なので、舞台の数は少なかったですね。仕事は結構いただいていたのですがリポーターなどのタレント業ばかりで、漫才で呼んでいただくことは稀でした。これはこれで芸を磨く勉強になっていたんでしょうが、当時はまだ若造の身でしたから、自分が目指していた芸人の理想像とは違う、ここは自分が頑張る場所ではないと考えるようになっていきました。

───芸を披露する劇場はあったんでしょうか。

あるにはあったんですが、当時はお客さんの入れ替わりがなく常連さんばかりで、そもそも客数が少ない。同じお客さんに一度見せたネタは、二度とは見せられません。ですから、まだ仕上がらない新ネタを次々と出し続けることの繰り返しでした。で、たまに東京や大阪の芸人さんたちと一緒になると、地肩の違いを感じるんですよ。舞台の数も芸人の数も断然多く、そこでシノギを削って戦い抜いている。アットホームな福岡吉本なりの良さもありますが、自分たちのネタを磨く場としてはどうなのかなと。そこで福岡吉本をいったん辞め、東京で勝負しようと思ったんです。この時、既に25歳になっていました。

───相方の黒瀬さんとは、その頃にコンビを組んだのですね。

彼はふたつ後輩で、それまで別のコンビでやってきたんですが、たまたまお互いの解散が重なったんですね。で、楽屋で東京に拠点を移すと話したところ、彼も同じように考えていて、とりあえずオーディションを受けるために一緒にやろうかとなったんです。いわば“お試し”でコンビを結成し、東京でどこかの事務所に入れて、相応しい相方が見つかったら解散という約束を交わしました。ただ、いまだにいい相方が見つからないんですよ…。彼は意外と突っ込みがウマいですからね。もっとうまく突っ込んでくれる人が現れたら、とは思っているんですが、なかなかね…。

───そこ、笑っていいところですよね(笑)。東京では、あちこちの事務所を受けたんですか。

そうですね。ただ、新宿に「ルミネtheよしもと」が完成するから戻って来いと言われ、結局、吉本芸人として再び舞台に立つようになりました。

苦しみ抜いて勝ち取った『M-1グランプリ』優勝

───台本はすべて佐藤さんが書いているそうですね。私みたいなお笑いの素人が言うのも失礼ですが、パンクブーブーさんの漫才をあらためて拝見したところ、ひとつひとつのネタがすごく緻密な構成に作り込まれていて、次から次と面白いネタをブッ込んでくる。シャベリの技術もあるのでしょうが、文章に携わる者として完成度の高さと才能を感じました。

才能なんて全くないですよ。この世界は類い稀な才能が集まる場所です。しかも僕らはパッと見、地味でしょ(苦笑)。ユニークなビジュアルだったり、ちょっと変わった声を出したり、最初のツカミで興味を惹きつけられる芸を持っているわけじゃない。しかもみんなキャラクターや発想力に底力を持っているから、僕らが勝負をかけるにはネタを作り込むしかないんですよ。ネタづくりに力を入れるのは、芸人で食べて行くための苦肉の策なんです。

───そんな思いがあったとは意外です。

30代になって才能のなさを受け入れたことがよかったと思います。もともと自分には才能があると思って飛び込んできたのですが、もっとすごいヤツが沢山いて、才能のなさに気付くまで10年以上かかりました。この時の頭の切り替えは本当に辛くて、頭の毛も随分薄くなりましたよ(笑)。しかも30代になるとオーディションの話も来なくなる。若手たちがいろんなオーディションを受けに行くなか、「僕たちは?」とマネージャーに尋ねると、「あれはもっと若い子たちが行くもの」とバッサリ言われるんです。さすがに年齢的にも限界が来たのかと悟りました。

───そんな状況で、テッペンを獲ったのが『M-1グランプリ』だったわけですね。

『M-1』優勝は第9回大会の2009年、僕も33歳になっていました。「劇場では笑いを取っているのに陽の目を見ない芸人たちへのラストチャンス」と、島田紳助師匠が創設した『M-1』は、僕らにしてみれば最後の砦。ここにしか出口はないと思い、第1回から毎年挑戦し続けました。実際、この回で決勝進出も出来なければ引退も覚悟していました。

パンクブーブー・佐藤のお笑いロジック

───結果的に決勝初進出で、あの笑い飯さんを破って劇的勝利。しかも満票を獲得したじゃないですか。ドラマチックな展開でしたね。この時も練りに練ったネタだったと思いますが、佐藤さんにとっての笑いの極意って、どこに重きを置いているのですか。

コンテストに限って言えば、「自分がこのひとことを言うために、このネタをやる」、あるいは「相方のこの表情を見せるために、このネタをやる」、つまりなぜ自分がこのネタを面白いと思ったかを明確に打ち出すことです。そこをハッキリさせずにネタだけ詰め込みすぎると、結局何が面白いのかわからなくなる。『M-1』決勝まで行く人たちって、それがわかっているんだと思います。

───逆に「これはスベるな」と本番中に感じたら、どうやって回避しますか。

基本的な考え方は同じで、たとえば新ネタで自分が面白いと思った部分だけでもウケていれば、他がスベったとしても問題ありません。伝え方が間違っていただけで、次に修正すると考えれば何とでもなるのです。そもそも僕らとお客さんの“常識”にズレがあると、どんな見せ方をしても笑いは起きません。だから僕らの“常識”を話の流れの中で伝えていき、いかに理解してもらえるかが勝負どころです。それでもウケない場合は、僕らの“常識”が正しいのか立ち返る必要があります。

───目線を変えて客観的に見るということですね。

相方との関係も同じで、昔はよくズレがあってケンカしていました(苦笑)。でも相方が面白いと思わなければ、お客さんが面白いと思うはずがありません。時間をかけて考えたネタですからジレンマはありますが、それって意味がないって気づいたんです。最近は台本を提供する機会も増えたので、パンクブーブーでは合わなかったけど他のコンビがやると面白くなることもあるから、僕たちに合う新ネタを考えた方が建設的だと思うようになりました。

───他の芸人に台本を書くとは、信頼されている証しですね。

後輩に提供することもありますし、先輩方から単独ライブをやるときの台本を書いてくれと頼まれることもあります。特別センスがある台本が書けるわけではないんですが、使い勝手がいいのだと思います。ただし他の人へ提供するときはネタの流れをきれいに作って、7割くらいの仕上がりで渡し、残りの3割は演者自身が自分なりの言葉や表現を盛り込みやすくしています。いわば“振り”をベースにしながら、ウケやすい流れの道筋を標すように心掛けています。

お笑いを極めた情熱をプラモにも注ぐ!?

───話はガラリと変わりますが、吉本プラモデル部の部長だそうで。やはり『機動戦士ガンダム』から入ったのですか。

そうですね。初めて自分のお小遣いでプラモデルを買ったのが4歳で、大分のトキハデパートで量産型ズゴック(ガンダムに登場するロボット兵器・モビルスーツのひとつ)を手にしました。ところが、これがプラモじゃなくガンダムカラーの塗料セットだったんですね(笑)。泣いている僕を見かねて、次の日に父親がズゴックと、そのズゴック用の新たな塗料セットを買ってくれて、箱絵を見ながら自分で色を混ぜて塗ったんです。

───幼稚園の頃から、いきなり塗装ですか!

そうなんです。以降、ハマりにハマって高校生までプラモづくりに励んでいたのですが、吉本に入ってお金が自由にならなくなって(笑)やめました。ところが自分の息子が2歳でプラモデルに興味を持つようになり、ここから再び火がついたんです。その流れで「プラモ業界にエンタメ要素を」と、それらしくこじつけて(笑)吉本プラモデル部を立ち上げ、本を出版したりYouTubeチャンネルを開設したりしています。
※吉本プラモデル部チャンネル URL
https://www.youtube.com/@yoshimoto-plamo

書籍『吉本プラモデル部活動記』
(山と渓谷社発行)

大分県民の皆さん、遠慮せずに自慢してください

───最後に大分の方へのメッセージをいただけますか。

大分へは頻繁に帰ってるわけではありませんが“大分愛”は強いです。最近は中津や宇佐のからあげの話を東京でもよく耳にしますが、大分が発祥のとり天は絶品で美味しいので、もっと全国的に広めたいですね。北九州出身の妻にも、家ではとり天を作ってもらっています。

───それはウレシイ!

大分には美味しいものがたくさんあるし、何と言っても入浴できる源泉数は世界1位ですよ。それをわざわざ「湧出量だとアメリカのイエローストーンに次いで世界第2位だけど、『日本一のおんせん県』なのは間違いない」と、どこか遠慮がちなんですよね。あまりにも身近に素晴らしいものがありすぎて、これに引っ込み思案の気質も手伝って、大分県民はその良さをさほど評価していないようにも感じます。堂々と「入浴出来る源泉数世界一! とり天は最高に美味しい!」と胸を張って言いきっちゃいましょう!

───身に染みるメッセージ、ありがとうございました!!

佐藤哲夫のオオイタ成分

さとう・てつお。パンクブーブーでボケ・ネタ作り担当。1976年、大分県大分市出身。大分県立大分豊府高校卒業後、九州産業大学進学と同時に福岡吉本に所属し、6期生としてお笑い芸人を目指す。1995年に初舞台を踏むも、大学は1年でドロップアウト。以降、お笑いに専念し、2001年にコンビを組んだ相方の黒瀬純と共に福岡吉本を退社し、東京へ拠点を移す。その後、東京吉本に復活し、ルミネtheよしもとのオープンと共に東京吉本に復活し、2003年に『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)で高得点を記録した後、2009年には『M-1グランプリ』(日本テレビ)で優勝を果たし、人気漫才コンビとなる。

 

よく読まれている記事

関連記事

share

share