挑戦するOitan

ブレない信念。
未来へ繋ぐ“大分魂”

2022.12/29

カタール開催の2022FIFAワールドカップでの日本代表の活躍ぶりは、世界中に大きな驚きと感動を与えました。優勝経験のあるドイツとスペインに勝利し、決勝トーナメントへ1位突破を決めて“新しい景色”への可能性を広げた記念すべき大会となりました。大分をホームにする大分トリニータも、これまで日本代表選手を輩出しています。A代表で初選出されたのが、下部組織出身の西川周作選手と梅崎司選手。2021シーズンより、再び大分でプレーを始めた梅崎司選手に、ユース後輩の井上裕大さんがインタビューしてくれました。トリニータユースの絆があるふたりならではの、愛と笑い(?)があふれるインタビューをご覧ください。

  

“トリニータのツカサ”が帰ってきた!

───井上 先輩、今日はよろしくお願いしま〜っす。

え、裕大がインタビュアー? 聞いてねーよ(爆笑)

2022シーズン第35節ベガルタ仙台戦 ©️OITA.F.C.

───井上 いや〜、2022シーズンの活躍ぶりを見て、居ても立ってもいられなくなり、ユース後輩を代表として手を上げさせてもらいました! インタビュー中は、敬意の念をこめて、あえてユース時代からの呼び方、「ツカサくん」と呼ばせてもらっていいですか。

「敬意」ってマジかよ(笑)。仕方ねぇな〜あ。でも、試合を観てくれてたんやな。どうだった?

───井上 シーズン中盤から調子をあげてきて、毎試合の活躍ぶりが楽しみでしたよ。衝撃的だったのはアウェーの第40節・横浜FC戦。開始5分で、いきなりヘディングでドスンとキメたのにはシビれました! ツカサくん、あんなこと出来たんやって、正直思いましたよ。

あんなことって(笑)。でも、アレは結構ムズかった。ある意味、感覚的なとこもあるしね。あの体勢だと、あそこしか無かったから、狙いどおりだったともいえるね。

───井上 積み上げてきたサッカー経験値が生んだゴール!というところもありますよね。でも昨シーズン途中からサプライズの古巣移籍で、俺、マジでうれしかったです。大分のこと、忘れてなかったんやなって。

あったり前やろ! サッカー選手としての俺を育ててくれた大分への恩は忘れないよ。帰ってきて、すごく懐かしかったし、あらためて懐の深いクラブだなって、身にしみて感じた。ただ、大分の街とクラブには戻ってきたけど、まったく別のチームに移籍してきた感覚でもあった。一緒にプレーしていたメンツもいないし、ましてや自分が最年長という立場だし。

───井上 エースだった(高松)大樹さんとは会いました?

もちろん! ミスタートリニータも大分市議会議員になり、雰囲気も変わったよね。

───井上 「ま、そっすね〜」と、インタビューで繰り返していた時期が懐かしいですよね(笑)。大分のレジェンドが議会に立っているとか、自分も不思議な感覚です。その大樹さんが引退した年齢が35歳。ツカサくんは来年で36歳になるけど、サッカーは続けて欲しい。

まだまだサッカーをやりたいって気持ちは強いよ。大分をJ1に戻さんといけんし。

「継続は力なり」を証明するサッカーノート

───井上 ツカサくんが出した『15歳』(東邦出版)と『どん底から何度でも這い上がる』(双葉社)って本を読んだんですけど、すげー感動しました。2冊目の『どん底から何度でも這い上がる』にはサッカーノートが紹介されていたんだけど、あれ、まだ続けてるんですか?

今も続けてるよ。高校生の時に始めて、何かある時は読み返している。もともと中村俊輔さんがサッカーノートを付けていると何かで見て、自分も大事な事を書き残そうと始めたんだよな。

───井上 実は自分も書いていた時期があったんだけど続かなかった(苦笑)。継続しているのは凄いなと思う。

自分の性格と合っていたのかもしれないね。サッカーって、思考がしっかりと整理され、冷静なメンタルを保っていないと良いプレーはできない。その時の心境だったり、置かれている立場、どういうプレーが出来て、どういうプレーが出来なかったとか、ひとつひとつ記録していくことが、モチベーションに繋がっていったと思う。

───井上 自分が出来なかったことに向き合うのって、簡単そうに見えて結構難しいですよね。出来なかったことを認めたくないという部分もあるし。何が足りないのか、何をしないといけないのかを考えていけるのは、ツカサくんの強みだと思う。「梅崎は努力で成り上がっていった」と、ユースでも語り継がれてきたけど、その原点はサッカーノートにあったんですね!

過去のノートをめくると、似たようなシチュエーションだったり、同じ心境になってたりするページを見つけ、「あの時はこうやって回復したんだ」「こういうメンタルで次の試合に臨んだのか」と、自分のことながら参考にしたりする。

───井上 コンディションは悪い時もあるし、それでも試合に出られなかったら心が折れる。そんな時、どうやってサッカーに向き合ってきました?

自分なりに一歩一歩、努力を積み重ねてきたという自負はある。それが自分のベースになっているのは間違いないし、そこからどうするかを考えるようにしている。精神面だけじゃなく、実際にどこまで技術的にやれるか、チームが描いた戦術で自分はどうすればハマるのか、自分には何が求められ何が不足しているのか、ひとつひとつ噛み締めながら、乗り越えてきたのかなと思う。

レベルの違いに驚愕。周作は「バケモン」だった

シャムスカ監督の起用でトップ下に定着した当時の梅崎選手 ©️OITA.F.C.

───井上 長崎から大分に来て、最初はどんな感じでした?

とにかく必死だったね。プロサッカー選手になるという夢があって親元を離れて大分に来たけど、最初はレベルの高さに驚いた。正直、ついて行けないと思った。寮生活も初めてだったし、通っていた大分東明高校にも最初は知らないクラスメイトばかり。サッカーに限らず生存競争に食らい付いていくので必死だったよ。当時は大分市古国府に寮があって、そこからチャリで高校に通い、そのまま練習場へ向かっていた。でも、慣れてくると仲間との寮生活は大きな存在になっていた。メシも一緒だし、風呂場でいろいろ話せたし、年代は違ってもライバルでありながら親友でもある。絆は深いよ。

───井上 当時の自分はU-15所属で、世代的にカブることはなかったけど、実はツカサくん世代は結構コワい存在だったんですよね。

え、そうなの?

───井上 正直、話しかけるのもキツくて、近くで練習してる時もビビってたんスよ。体育会系の雰囲気がガッツリありましたからねー。

マジで? 俺も? 尖ってたんだなぁ(笑)。でも、その雰囲気って、ある意味、大事だと思うんだよね。最近はスポーツチームもやさしい時代になってきて、それは若手選手が伸びやすい環境なのかもしれないけど、逆に緊張感が薄れて良くない面も出てきたりするんじゃないのかなと。

───井上 わかります、わかります。自分もあの環境で練習ができたのはよかったと思います。

もちろん程度はあるけど、プロになってから経験するより、若いうちに厳しさを覚えておいたほうがいいからね。プロになっていきなり厳しい言葉を浴びせられ、ビビりながらプレーするわけにはいかないしね(笑)。

───井上 同級生だった(西川)周作くん(現浦和レッズ所属・GK)は、どうでした?

バケモンだったね。ポジションは自分と違ってGKだけど、レベルが違いすぎると衝撃を受けた。持って生まれた才能というか、スケールがデカくて体もデカい、俊敏性もあって、あるゆるシュートを止める。キックの精度は当時からトップクラスだったんじゃないかな。

───井上 クラブユース選手権のアビスパ福岡U-18戦で、GKながら直接フリーキックを決めたくらいですからね。フィールドプレーヤーでライバル視している選手はいました?

全員かな。1年生の時は、ほとんど試合に絡むことがなく、最初はベンチにも入れない日が続いていたからね。

“恩師・ファンボさんとのタダならぬ「絆」

───井上 監督はファンボ(カン)さん(韓国出身・サッカー指導者)でしたよね。

ユースの時も、プロになってからも、最初の監督はファンボさんだった。2年から試合に起用してくれたし、自分のメンタルを強くさせてくれた恩人……って、何を笑ってんだよ(笑)。

───井上 いやいや、ツカサくんとファンボさんの関係は、ユースでは伝説として語り継がれていますよ、ドリンクボトル事件のこととか。

あぁ、アレね(苦笑)。2年になって自信がついてきた頃、突如スランプになってしまってね。システムが4-2-3-1から4-3-3になり、新しいポジションにフィットできなかったことが影響したのかもしれない。それでもファンボさんは自分を使い続けてくれたんだけど、ついにはサガン鳥栖U-18戦の前日に、スタメンから外されることを告げられた。

───井上 むっちゃ悔しかったでしょ。

ショックだった。でも「途中出場して結果を出せば」とも思った。試合当日は苦労して自分を育ててくれた母親も長崎から片道4時間かけて駆けつけてくれ、ベンチながらも気持ちを高めて試合の行方を観ていた。で、やっと後半10分に声が掛かり、「絶対に点を取ってやる!」という気持ちでピッチに出た。ところがその10分後、「サイドバックに入れ」と指示を出され、今までやったことないポジションに戸惑いながらプレーを続けたんだけど、10分くらいで交代を命じられたんだ。途中出場ながら20分後に外される。その屈辱感から、ピッチを去る時に思わず「マジ、意味わかんねー!」と叫んで、ピッチ横に置いてあったドリンクボトルを蹴飛ばしたんだよね。

───井上 気持ちはわかりますが、ちょっとヤバいッスよね…。

その後、ロッカールームで泣いていたら試合終了後にファンボさんが来て、「そういう態度はプロになってからしろ!」と散々怒られ、チームメイトの前で「俺はああいうのが一番嫌いだ。選手だったらピッチで結果を見せろ!」とまで言われた。でもその翌日、監督室に呼ばれて「俺がなんで怒ったか、それはおまえに期待しているからだ」と言われた時は、なんともいえない気分になったね。

───井上 そこから心を入れ替えたんですっけ。

気合いを入れ直して自主練に集中したけど、なかなか思い通りにいかず、それを見かねたのかファンボさんから「お前は1週間練習するな」と言われたんだ。頭を冷やせ、ということだったんだろうけど、結果的に2年が終わるまでパッとしないままだった。で、調子が上がってきたのは、ファンボさんがトップチームのコーチになって監督が交代した3年生になってから。皮肉なもんだね。システムが4-4-2になり、自分の役割がハッキリと見えてきたからってのはあると思う。そんなことがあったけど、ファンボさんには感謝しかないね。あとでわかったことだけど、自分がトップチームに昇格できたのも、ファンボさんが強く押してくれたからだと聞いている。

プロ1年目は鳴かず飛ばずの寂しい結果

ファンボ監督の下、2005年に西川周作選手とトップチームへ(前列右から2人目) ©️OITA.F.C.

───井上 トップチームに昇格してからは、どうでした。

最初の3ヶ月ぐらいは、それこそビビリながらプレーしていたよ。「これじゃダメだな」と、ずっと自分との葛藤の繰り返しだった。実際、試合にも出ていないし。

───井上 自分もプロになった最初の練習を見て、そのレベルの違いに圧倒されましたよ。

DFの三木(隆司)さんと、FWのキジさん(木島良輔)とのマッチアップは衝撃的だったね。キジさんは自分と同じで小柄だけど、スピードがあってドリブルが得意。対する三木さんも「カミソリタックル」と呼ばれていて、キレのある二人がやりあっているのを見て、こんな凄まじい先輩たちの中で、自分はやっていけるのかなと思ったよ。

───井上 キジさんは、結構ツカサくんを可愛がってくれてたそうですね。

見かけはヤンキーっぽくて怖く見えるかもしれないけど(笑)、親分肌だし後輩たちの面倒を見てくれる存在だった。体型もプレースタイルも自分と似ていると思っていたから、いろいろ学ぶところも多かったし、「キジさんみたいになりたい!」と目標にしていた。

───井上 目標にできる先輩がいることは大きいですからね。

それでもなかなかプロ1年目はパッとしなかった。しかもシーズン途中で、自分をプロに引っぱり上げてくれたファンボさんが解任されたんだ。悔しかったし、なんの力にもなれず申し訳なかった。その後、シャムスカ監督が就任し、いわゆる「シャムスカ・マジック」のおかげでチームは奇跡的にJ1に残留できたけど、ルーキーイヤーのリーグ戦出場は3試合のみだった。

理想の形でプロ初ゴールを決めた躍進の年

───井上 本領発揮できたのはプロ2年目の2006年からでしたね。

シーズン序盤戦はベンチ入りもなかなかできず、帯同メンバーから外れたモリゲ(森重真人・現FC東京所属)と高橋大輔くんとで、腐ることなく練習をしていたね。調子を上げていったのは、第8節のホーム・九州石油ドーム(当時)の甲府戦で初めてアシストを決めた時から。

───井上 シャムスカ監督は、積極的に若手を起用してましたからね。自分と同期のコテ(小手川宏基・現ジェイリースFC)とか、ユース時代にJ1デビューさせてもらったし。

サッカー選手として未熟だった自分に目にかけてくれ、ありがたい存在だった。自分のプレーの良いところを見つけて高く評価し、そこからモチベーションが高まり、好きにさせてくれた。今になって思い返すと、若い選手がベテランに混じってプレーすることが、いい刺激になっていたのかもしれない。ベテランのプレーをリスペクトしながらも、若手がちょっとした新しい違いを見せることで、チーム全体を作り上げていく…。自分がベテランになった今だからこそ感じる目線かもしれない。

───井上 わかる気がします。プロ初ゴールも、初アシストから半月後の第11節、アウェー・鹿島アントラーズ戦でしたね。

あの試合では、周作のキックをネモさん(根本裕一)が繋ぎ、グラウンダーのクロスからピシャリとゴールを決められた。そのまま守りきってチームも勝利を飾ったし、めちゃめちゃ嬉しかった。それまでトリニータは鹿島に勝ったことなかったしね。なによりもユース時代から深い絆がある周作がゴールを守り、その周作のフィードから自分がゴールを決めるという、夢に描いていたゴールだったからね。

トリニータ史上初のA代表選出!

西川周作選手と共にA代表に選出された時の凱旋記者会見 ©️OITA.F.C.

───井上 ドラマになりそうですね! そこからも「梅崎劇場」が続いてレギュラーに定着し、その年の8月には、周作さんと二人でトリニータ史上初のA代表に選出。もはや映画化されてもいいのでは(笑)。

そこまでは、ないない(笑)。でも、日を追うごとに自分が成長していく手応えはあったから、A代表でもその勢いのまま勝負してやろうという気持ちでいっぱいだった。その一方で、サッカーの奥深さを知らなかったという自覚もあり、チャレンジするの中でいろんなことを学んでいこうと貪欲そのものだった。

───井上 日本代表はオシム監督でしたよね。いかがでしたか。

指揮官をしていたジェフユナイテッド千葉との対戦もあり、すごく魅力的なサッカーをしているなと思っていたし、ある意味、「掴みどころのない」イメージも持っていた。実際、チームに参加してみて、とにかく考える事が多い。練習のひとつひとつを取っても考えさせられる内容で、斬新で新鮮だった。走ることを大切にしていて、走りながらどう追い越すか、どこで切り返すかを考え、たくさんのことを学ばせてもらった。代表選での出場時間は、イエメン戦の途中出場と短かったけど、その後のU-19日本代表や、もちろんトリニータでもA代表の経験が生かせたと思う。

サッカーを極めていきたいという思いは変わらず

35歳を迎え、現役選手として存在感を見せた2022シーズン ©️OITA.F.C.

───井上 翌年の2007年にはフランス2部・グルノーブルへ半年間の期限付き移籍を経て、再び大分でプレーをしてチームのJ1残留に貢献してくれた。しかし、この盛りだくさんの経験をしたのが20歳前後だったとは、驚きですよね。

楽しいことも、悔しいことも、たくさんあったけど、すべて自分のものになっている。35歳になるまでサッカーをやってきたけど、正直なところ引退を考えたこともある。やる気を失って、軽く鬱っぽいのかなと思った時期もある。プロサッカー選手としてのタイムリミットが近づいているとも感じていた。でも、やっぱりもう一回ピッチに立って、いいプレーをして歓声を浴びたいというのが一番だった。サッカー選手以外の職業をしたことがないのでわからないけれど、いまも成長欲というか、「もっと上手くなりたい」「もっとサッカーを知りたい」という気持ちは変わらないし、これが自分の原動力の全てだと思っている。

───井上 自分も現役を引退して、今は新しい環境で自分の力を発揮したいという気持ちでいっぱいです。そんな時にツカサくんが大分に戻ってきて、自分的にもうれしかったというか。最後に大分への思いを、あらためて聞かせてもらえますか。

生まれは長崎だけど、自分を大きく成長させてくれたのは、やはり大分の地であり、そこには感謝しか見当たらない。戻ってきたときは、サポーターの皆さんも「お帰り!」と快く迎えてくれたし、この間のファン感謝デーでも自分のユニフォームを持っているサポーターが思った以上にたくさんいて、ありがたかった。この気持ちをプレーで表現し、これまでの経験を自分なりに還元できたらと思っている。

───井上 最後に、契約更新してくれて、ありがとうございます! 来年こそ、J1復帰ですね!

そうだな。裕大、またゆっくり話そうな!

───井上 あざーす!!

梅崎 司のオオイタ成分

プロサッカー選手。大分トリニータ所属・MF。1987年、長崎県諫早市生まれ。2002年、高校進学と同時に大分トリニータユースに所属。2005年にトップチームに昇格し、2006年には日本代表に選ばれ、A代表デビューを飾る。2007年、フランスのグルノーブル・フット38へ期限付き移籍。同年6月から大分トリニータに復帰。2008年、浦和レッズへ移籍。2009年から幾度となく大怪我を負うが、その度に復活。2017年には湘南ベルマーレへ移籍。2021年7月より大分へ完全移籍。
大分トリニータ
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梅崎司オフィシャル後援会
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