※飯テロ注意!※
「日本のアンデルセン」はスイーツ男子!すき焼き奉行の「よかろう」伝説
口演童話家久留島武彦


童話の里・玖珠町。大分の人なら誰でも知っていることだけど、そもそもなぜ童話? その理由は、生涯を通じて200万人以上の人々に童話を語って聞かせた、久留島武彦の出身地だから。178話もの作品を残した童話作家でもあり、さらに世界的な童話作家・アンデルセンの童話を日本に広め、生地であるデンマークではアンデルセンの復権を訴え、地元の新聞に「日本のアンデルセン」と紹介された人物でもあります。
しかしこの久留島武彦という人物、ちょっと掘ってみるだけで「童話」以外の偉業が出るわ出るわ。しかもその数がエグいんです! まずは、物語のような出生のお話から。

「日本のアンデルセン」は殿様家系のおぼっちゃま
久留島武彦は1874(明治7)年、大分県玖珠郡森町(現在の玖珠町)に生まれました。久留島家の祖先は、日本最大の海賊と呼ばれた村上水軍の来島(くるしま)村上。後に、豊後国森(現在の玖珠町)を治める藩主になり、2代目藩主の時に「久留島」に姓を変えました。
この森藩の9代藩主が、何を隠そう武彦のおじいちゃん。次男だった父親が生まれつき病弱だったこともあり藩主を継ぐことはありませんでしたが、もし父親が藩主を継いでいたら、武彦がお殿様になっていた可能性も!
大分市の大分中学(現在の大分上野丘高等学校)で出会ったアメリカ人英語教師・ウェンライト先生からは、大いに影響を受けまくります。父親のように慕っており、ウェンライト先生が神戸の関西学院で働くことになった時には一緒について行き、そのまま関西学院に転校! 卒業後もウェンライト先生の影響で、子どもの教育へ情熱を傾けていくのです。その中で最も力を入れたのが、人が人として生きていく上で必要な教えを楽しいお話にのせて伝える、口演童話 でした。
ちなみに武彦少年は、「大好きなウェンライト先生ともっとお話がしたい!」と中学時代から必死に英語を学んだそうで、いつの間にか通訳もできるほど英語ペラペラのバイリンガルボーイに育っていました。

ドームクラスの人気者
口演童話家のアイアンマンエピソード
初めて口演童話会を開催したのは29歳の時。以来、86歳で亡くなる2カ月前まで演壇に立ち続け、重ねた口演は数知れず。その総動員数は、久留島武彦研究の第一人者でもある「久留島武彦記念館」の金成妍(キムソンヨン)館長が把握できただけでも200万人超!! これは東京ドーム公演36回分に匹敵するとか。 その人気はすさまじく、ある時の口演会では人が集まりすぎて床が抜け、転落事故が起きたり、朝鮮半島の京城(現在のソウル)で行った口演童話会では、2000人を超える子どもたちが集まり警察が出動するほどの騒ぎになったり。 「1年に360回演壇に立った」という記録も残っています。それも明治や大正、昭和初期と交通網が発達していない時代に。1913(大正2)年の夏、島根県で口演童話をした際は、炎天下に約40kmの山道を自転車で爆走! 会場に着くなり、休むことなく演壇に立ったという超人としか思えないエピソードも残されています。


「日本初」、爆誕!
バイタリティーと行動力に溢れる男・久留島武彦は、「日本初」のエピソードもたくさん持っています。
1903(明治36)年に行った日本初の子どものためのお話会(口演童話会)を皮切りに、日本初を乱発します。子ども向け演劇の上演や週刊子供新聞の創刊など子ども関連だけでなく、日本初の世界一周旅行への通訳としての参加や、日本初のラジオ放送の開始初日からレギュラー出演など。中でもすごいのが、日本初のピースサイン! 1913(大正2)年、顔の横でピースサインをする写真が残っています。
そして、誰もが知っている「継続は力なり」という言葉も生み出しています。視察旅行で訪れたアメリカで聞いた「考えは力なり」という言葉に自らの経験と考えを重ね、「継続は力なり」という言葉を作り、座右の銘に。以後、色紙などにも「継続は力なり」と記すようになりました。


大の甘党が作る
プロフェッショナル すき焼きの流儀
タバコも酒も好まなかった久留島武彦が大好きだったのが甘いもの。ある文章に「自分は、砂糖を枕にして寝たい」と書くほど大の甘党でした。こんな事を言えるのはアリくらいですよね!?
特に好んだのが、甘〜いすき焼き。多くの弟子が書き残すほど、本当によくすき焼きを食べていたそうです。しかもその作り方にはこだわりがあり、「僕がやるから!」と他の誰にも手を出させなかったほど。
ここでそのレシピをご紹介。
鍋に油を敷いたら、まず入れるのがタマネギ。そこにすかさず砂糖をばら撒いて、肉を一枚一枚重ねて置いたら、さらに砂糖を投入。次に水気の少ない野菜を入れてフタをして煮込むのですが、まだ使った調味料は砂糖だけ。激烈に甘そう!! そして肉に砂糖が染み込んだら、糸こんにゃくや豆腐、白菜などの具物を加え、ようやく醤油を入れます。ここまでの時間、約20分。もうかなりいい匂いが漂っているはずですが、武彦の許しが出るまではお預け。
「『よかろう』。やがて先生の一言でフタが取られると、我先にと箸の突入である」と、弟子の阿南哲朗が自身の本『九州童話』に書き残しています。武彦から「よかろう」の言葉が発せられるまで、箸をつけることもできなかったんですね。ここまでくると、鍋奉行というより鍋殿様? こんなところにも本物の殿様の血筋が影響しているのでしょうか。
しかし、砂糖をまぶしまくって20分間も煮るすき焼きが本当に美味しいのか?? そこにはこの時代特有の肉事情が関わっているようで。金館長も、当時の肉がとても硬かったので、砂糖をたっぷり使ってじっくり煮込むことで、柔らかくしたのではないか?と考えているようです。

まさに飯テロ!
「久留島流すき焼き」の伝導
明治生まれのスイーツ男子が考えた「久留島流すき焼き」が、現代の玖珠町にも広まっています。その仕掛け人が「久留島流すき焼き実行委員会」の原孝彰代表。食を通じた観光振興として、玖珠町を代表するグルメにするべく奔走しています。「玖珠はお米も美味しい、お酒も美味しい。種牛も有名だからもちろん牛肉も美味しいし、日本一の椎茸もある。すき焼きの材料がすべて揃っているんですよ」。秋から冬にかけて『道の駅童話の里くす』に登場するほか、町内でも提供店が増えてきています。
さらに、子どもたちにも地元玖珠町のこと、そして玖珠町を代表する偉人・久留島武彦のことを深く知ってもらおうと、数年前から学校給食にも「久留島流すき焼き」が登場。しかも使用するのは、豊後牛の中でも最上位ランクの「おおいた和牛」!! 有志から寄付を募ることで、学校給食での高級肉の使用を実現しているというからニクい。ただ久留島武彦のことを話すより、すき焼きを食べることで子どもたちの関心をひく作戦は、完全に飯テロです。最高級の豊後牛で作るすき焼きなんて、大人でもそうそうお目にかかれないですからね。その美味しい刺激に乗じて久留島武彦を刷り込ませる戦略、素晴らしいと思います! これからもたくさんの久留島チルドレンが育ちそうですね。


おわりに
生涯を通じて、子どもに向けた口演童話を精力的に続けた久留島武彦。楽しい童話を通じて、信じ合うこと、助け合うこと、違いを認め合うことなど、人が人として共に生きていく上で必要なことを教えていきました。その思いは祭りや記念館、そして久留島流すき焼きで後世に受け継がれています。




久留島武彦の経歴
1874(明治7)〜1960(昭和35)年。「日本のアンデルセン」と呼ばれ、明治・大正・昭和の三代にわたって児童文化に情熱を注いだ教育者。
取材協力:
久留島武彦記念館
久留島武彦の功績や残した言葉などをさまざまな展示で紹介。久留島童話を映像で体感できるほか、武彦の口演童話の肉声を聞くこともできる。
大分県玖珠郡玖珠町大字森855
電話 0973-73-9200
開館時間 9:30〜16:30
入館料 300円(町内者150円)、高校生以下、18歳未満は無料
休館日 月曜(祝祭日の場合は開館、翌日休み)、年末年始(12/28〜1/4)
