表現を楽しむOitan

長湯・久住に訪れたからには詠わずにはいられNE!
MEGAインフルエンサー 与謝野晶子・鉄幹

歌人与謝野晶子・与謝野鉄幹

2021.06/28

大分の至る所に歌碑があるのをご存じですか?

明治から昭和期にかけて、日本中から多くの歌人が訪れた大分県。
その大旋風を巻き起こしたのは、情熱の歌人と言われる与謝野晶子と彼女を支えた夫 与謝野鉄幹でした。

今のようにSNSがない時代に多くの歌人に大分の魅力を伝え、かの文豪 川端康成も二人の影響で大分を訪れて小説を書いたと言われるほど、超ド級のインフルエンサー。

大分の景色や温泉に魅せられた与謝野夫婦は何度も来県して、歌を詠み、残しています。その数々が歌碑として当時の情景を伝え続けています。

今回は二人のなれそめにはじまり、昭和7年に二人が1泊した長湯温泉での一夜をご紹介します。きっと皆さんも大分の景色を見て、詠いたくなること間違いなしです!(笑)

それではいきましょう。

子ども12人にはイクメン夫の存在あり【二人のなれそめ編】

▲与謝野鉄幹と晶子(写真提供:鞍馬寺)


夫 鉄幹は若者から熱烈な支持を受けていた文芸誌「明星」の主宰者です。詩や雑誌編集などの才能にあふれ、何人もの女性を股にかけるモテ男でした。

そんなモテ男 鉄幹と晶子のなれそめは、「明星」に作品を投稿していた晶子の才能を見出し、指導していくうちに、お互い惹かれ合ったことがきっかけです。当時鉄幹には内縁の妻がいたというところも片隅におけないところでしょうか。

みなさんのよく知る歌集「みだれ髪」は鉄幹のプロデュースによるもので、女性の恋や性を大胆に詠った作品は当時としてセンセーショナルな内容で世間から熱烈な支持を集めました。
掲載されている歌の多くは鉄幹との恋を詠ったものだったというのも情熱的な二人を象徴するエピソードです。

情熱あふれる二人には、なんと12人もの子どもがおり、昭和の時代では考えられませんが、夫の鉄幹は家事、育児に加え、晶子の仕事がしやすい環境づくりまでしていた稀代のイクメンでした。

そうした鉄幹の支えにより晶子は一流歌人へ仲間入りを果たしていきます。

鉄幹、かっKE-!!!ってなりましたよね?

有名人が集って深夜一時まで詠みまくった【長湯温泉での一夜編】


「ぴかぴかおじさん」の愛称で知られる熊八の招きで、二人は久住を訪れ、その景色の雄大さや山々の美しさに感動します。きっと熊八の案内も素晴らしいものだったことがうかがえます。

油屋熊八の記事はコチラ


そのかいあって、翌年、久住を再訪しますが、霧と雨で久住山を拝めず悔やんでいるようでした。

▲昭和7年、久住町の種蓄場で撮影された写真。着物を着た女性が晶子、その右隣が鉄幹


そして、久住山系の麓、芹川沿いに建つ長湯温泉の大丸旅館に1泊し、長い長い一夜を迎えます。

その夜、晶子と鉄幹は、中四国や九州から、有名な歌人を集めて、宿で詠いまくりました。記録によると、「寝に付いたのは午前一時でした」とのこと。

とっても楽しいパーリナイを経て、ここ長湯でたくさんの歌が生まれました。

久住や長湯のことを詠んだそれらの歌には、「湯の原」「芹川」「久住」といった言葉が多く登場します。

大丸旅館には、晶子と鉄幹がその日に詠んだ歌を刻んだ歌碑や直筆の色紙や掛け軸があります。

芹川の湯の宿にゐて灯のもとに 秋をおぼゆる山の夕立 鉄幹
湯の原の雨山に満ちその雨の 錆の如くに浮かぶ霧かな 晶子

▲左:大丸旅館の前に建つ、晶子と鉄幹の歌碑/右:鉄幹が書いた色紙


二人の生き生きとした筆づかいが、歌づくりに興じた一夜の楽しさを語りかけて来るようです。

ちなみに、作歌にふけっていた夜、晶子は吸っていた煙草を2階から芹川に放ったという、まるで我々の大学時代のワンシーンを彷彿とさせる出来事ですが、晶子がポイッと投げた煙草が弧を描いて夜の芹川に落ちる、そんな風雅な様子を想像するとなんだかしゃれおつで詠わずにはいられNE-!!!ってなりますよね?

▲芹川沿いに建つ長湯温泉の大丸旅館

インフルエンサーの神髄ここにあり【行動変容:文豪連れてきちゃった編】


久住も長湯も「万葉集」に詠われた地であり、時を越えてその美しい自然と温泉が訪れる人を魅了してきました。

そして、インフルエンサー与謝野晶子・鉄幹の発信力のおかげで数多くの文学者が大分に訪れ、ついにはノーベル文学賞を受賞するほどの文豪 川端康成を行動変容させちゃいます。

二人が久住や長湯で詠んだ歌は、当時夫妻が主宰していた「冬柏」に「久住の歌」として発表しており、川端康成はその歌を小説の構成材料にしたり、実際に大分を訪れ、山々や高原の美しさに感動している様子を残しています。

雄大な自然が広がる久住と、情緒あふれる長湯温泉の圧倒的な魅力は、晶子と鉄幹をはじめとするさまざまな文学者、そして文化人によって讃えられてきました。
その想いは長い時間をかけて現在に至るまで、脈々と受け継がれています。

そんな久住と長湯には、訪れた歌人の作品を刻んだ歌碑が至るところに建っています。
久住町には18カ所、長湯温泉には20カ所あり、晶子と鉄幹の歌碑は久住と長湯の両方にあり、他にも県内各所で見ることができます。

▲左:晶子の歌碑/右:鉄幹の歌碑(久住高原「星ふる館」そば)


豊かな自然に恵まれた大分で、作者たちの想いに寄り添いながら歌碑をめぐる文学的な旅を楽しみTE-!!!と思ってもらえると幸いです。

おわりに

現在、新型コロナウイルスがまん延するなかで、1918年に世界中で大流行したスペイン風邪について取り上げられることがあります。
その当時、晶子は自身の評論でスペイン風邪の感染拡大防止について、「なぜ、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」と、政府を批判しました。
実は、これも鉄幹のプロデュースによるものだったそうです。
もしも晶子と鉄幹が生きていたなら、コロナ禍の今の状況に対してどんな言葉を発信したのか、想像が膨らみますNE!

与謝野晶子の経歴

明治11年、大阪府堺市生まれ。明治、大正、昭和にかけて活躍した歌人で、その作風から「情熱の歌人」と呼ばれた。与謝野鉄幹の妻であり、鉄幹との12人の子どもの母親でもあった。昭和17年没。代表作に歌集「みだれ髪」、詩「君死にたまふことなかれ」など。

与謝野鉄幹の経歴

明治6年、京都生まれ。明治25年に上京し、落合直文門下となる。月刊文芸誌「明星」を創刊し、北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出す。のちに結婚する晶子の才能も見出し、「みだれ髪」をプロデュース。慶應義塾大学の教授も務めた。昭和10年没。

【取材協力】

◎大丸旅館
場所/大分県竹田市直入町大字長湯7992-1
長湯温泉を代表する老舗旅館。与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめ、大仏次郎、徳富蘇峰、高田力蔵、立松和平など、多くの文化人著名人に愛された宿でもある。

◎与謝野晶子記念館
場所/大阪府堺市堺区宿院町西2-1-1 「さかい利晶の杜」内
晶子の人物像や作品の世界観などを紹介するほか、着物や鏡台などの愛用品を展示。鉄幹とともに歩んだ生涯についても紹介している。

【ミニコラム1】“日本一の炭酸泉”としても知られる長湯温泉

長湯温泉の泉質は、炭酸ガスが豊富に含まれた「炭酸泉(二酸化炭素泉)」。湯温40℃以上の温泉における炭酸ガスの濃度が全国的に見ても極めて高いことから、“日本一の炭酸泉”と呼ばれるようになりました。炭酸ガスは体内に吸収されると毛細血管を拡張し、血行を促進するという性質があると言われています。また、飲泉(温泉を飲むこと)もでき、体の内側と外側から健康をめざすことができる温泉です。

▲長湯温泉 飲泉場COLONADE
(写真提供:特別非営利活動法人 竹田市観光ツーリズム協会)
【ミニコラム2】大自然のパノラマビューが体感できる久住高原

九州のほぼ真ん中、阿蘇くじゅう国立公園に位置する久住高原。雄大な山の麓になだらかに広がる広大な高原では、見渡す限りのグリーンに囲まれて、ダイナミックな自然を体感することができます。周辺にはキャンプ場や温泉も多く、日常を忘れてリフレッシュするのにおすすめです。

▲久住高原
【ミニコラム3】“歌を注文する”何とも粋な当時の娯楽

晶子や鉄幹のように有名な歌人は、旅に出る前に、旅先に手紙で旅行の工程を知らせていました。
そのことを知った、短歌を趣味にしていた人たちなどが歌を注文していたそうです。
そういった人たちにとって、宿に訪れて一緒に歌詠みをしたり、歌を書いてもらったりするのが最高の喜びだったといいます。
大丸旅館に残されている歌の注文帳には、晶子と鉄幹に歌を注文した人の名前と肩書き、注文内容(色紙、半折、掛軸)が記入されていました。

▲大丸旅館に残されている歌の注文帳

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