民を導くOitan

CLUBHOUSEで江戸時代の偉人たちが同窓会していた

儒学者・教育者・漢詩人廣瀬 淡窓

2021.03/19

近年、“音声SNS”として話題の「CLUB HOUSE」。ラジオのように興味のある話を手軽に聴くことができ、会話への参加も可能なことから、多くのユーザーが利用しています。専門的な分野で活躍している方の話も聞けるため、最新の「知の集積地」と言っても過言ではないでしょう。

しかし、かつての大分県にも「知の集積地」がありました。それが江戸時代に広瀬淡窓(ひろせたんそう)によって開かれた私塾「咸宜園(かんぎえん)」です。広く門下生を受け入れ、平等に勉学の機会を与えていた点は、CLUB HOUSEと共通している点かもしれません。

今回の記事では、CLUB HOUSEと咸宜園を掛け合わせ、「もし咸宜園の門下生たちがCLUB HOUSEで同窓会を開いていたら」という切り口で、咸宜園の魅力をご紹介します。
現代でも使えるヒントが詰まっているので、ぜひ卒業生たちのやりとりを楽しみながらご覧ください。

登場人物

オマス
▲(Wikipediaから引用。「大村益次郎」 (2021年2月23日 (火) 02:36 UTCの版). 『ウィキペディア日本語版』)

オマス(大村益次郎)達観したお兄ちゃん肌(ファシリテーター)
1843年入門、周防出身、長州藩、適塾塾頭、高杉晋作と倒幕、戊辰戦争

タカチョー
▲(Wikipediaから引用。「高野長英」 (2020年12月1日 (火) 17:31 UTCの版). 『ウィキペディア日本語版』)

タカチョー(高野長英)クール系
1829年入門、陸奥(青森-岩手あたり)出身、蘭学者、シーボルト

マーシー
▲Credit:Yuya Murakami

マーシー(中島子玉)ぶっこむタイプの天才肌
1816年入門、豊後佐伯出身、咸宜園に留学、天才、1年弱で塾頭、淡窓も評価

流行りのCLUBHOUSEに入ってみたら

流行りのCLUBHOUSEに入ってみたら

(友達からCLUB HOUSEに招待してもらったけど、使い方がよく分からん……。とりあえず適当に入ってみるか)

CLUBHOUSE

ボク
オマス

さあ、参加者が集まったところで、ぼちぼち咸宜園の同窓会を始めますか。
タカチョーさんも、マーシーさんも来てくれてありがとうね!

マーシー

オマスさん、お久しぶりっす!
久々にみんなと話せるって聞いて参加したんですが、わざわざCLUB HOUSE使うって、なかなか先進的ですね(笑)。

タカチョー

たしかにそうですね。何か理由があるんでしょうか?

オマス

理由はいくつかあるんですが、みんなと久々に話したいと思ったのが一つ。もう一つは、どうやら現代の子たちは「咸宜園について知らない」と聞いたので、同窓会を兼ねて咸宜園をアピールしてやろうと思い、実施しました!

タカチョー

心得ました。
CLUB HOUSEは話している内容がオープンなので、ただの身内話にならないよう、ある程度は詳しく説明した方がいいかもしれませんね。

マーシー

タカチョーさん、それナイスアイデアっす!

(なるほど。どこかの学校か何かの同窓会か。まあ説明も丁寧そうだし、もう少し聞いてみるか)

ボク

トークテーマ①「三奪法」

オマス

それでは、メインのトークテーマをいくつか考えてきたんですが、咸宜園の卒業生にとって「三奪法(さんだつほう)」は外せませんね。

マーシー

うわぁ、めっちゃ懐かしいですね!
三奪法って、「門下生を広く受け入れる」ってやつでしたよね。細かいことは忘れたけど(笑)。

タカチョー

大体は合っていますね。
咸宜園の門を叩く者には、「学歴・年齢・身分」の3つを問わないとするものです。
全国から入門希望者がやってきたのは、全ての門下生が平等に教育を受けられる点が魅力的だったのかもしれませんね。

オマス

さすが、タカチョーさん!
たしか、マーシーさんは豊後佐伯市出身でしたが、タカチョーさんは陸奥(現在の青森・岩手エリア)出身ですよね?

タカチョー

そうですね。咸宜園に入るまではシーボルトの蘭学塾「鳴滝塾」で医学の勉強をしていました。
それから咸宜園の門下生となりましたが、広瀬淡窓先生からは「私の教え子のなかで国家を忘れなかったのは、君だけだ」と言われたこともあります。

マーシー

めっちゃ褒められているじゃないですか!
僕も咸宜園でも指折りの天才とか言われていたんですが、天才すぎたせいか、咸宜園の塾頭を任せられた時は焦りましたよ(笑)。
内心「先生、キツいっすよ」って思ってました(笑)。

オマス

みなさん優秀でしたよね。
現代では普通のことらしいですが、江戸時代の私塾で女性の学生も受け入れていたのも、咸宜園ならではのポイントですね。

タカチョー

淡窓先生は門下生一人ひとりの個性や意思を大事にしていました。
中国の詩集にある「咸(ことごとく)宜(よろしい)」、つまり「全てのことがよろしい」という意味を塾名に込めたそうですね。

マーシー

え、そうだったんですか?!
ってか、活躍で言えばオマスさんも大坂の適塾で塾頭に就任したり、戊辰戦争では高杉晋作と活躍したりしたじゃないですか!

ただ、咸宜園で学んだからこそ活躍できたとは思いますが、入るのは簡単な一方で、その後が大変なんすよねぇ。

(え、もしかして、昔の人が喋ってる?ってか、みんなすごくね?)

ボク
三奪法に関する資料「六橋紀聞(ろっきょうきぶん)」
▲三奪法に関する資料「六橋紀聞(ろっきょうきぶん)」。「入我門者有三奪法」とある(提供:廣瀬資料館)

トークテーマ②「月旦評」や「その他の規約」

オマス

たしかに、咸宜園の教育制度は過酷な面もありましたね(笑)。
特に「月旦評(げったんひょう)」は毎回のように緊張しましたね。

タカチョー

毎月の初めに門下生のテスト結果を張り出し、成績ごとにランク分けされる制度ですね。
無級〜九級までの10段階で席次をつけられるので、門下生たちはライバルみたいな存在でしたね。

オマス

まぁ、競い合える環境があったからこそ、「負けるか!」って気持ちで勉強に臨めたかもしれませんね!

マーシー

月旦評は毎回チョロくなかったすか?
それよりも規約とか職任が面倒くさくて。

タカチョー

……。

オマス

タカチョーさん、怒らないであげてください(笑)。
マーシーさんの言う通り、門下生を評価する月旦評以外にも、規則正しい生活を送らせる「規約」や、私たち門下生に塾や寮の運営を任せる「職任」など、やることがたくさんありましたよね。

マーシー

そうそう。勉強は余裕なのに、そういった細々としたことが大変だったんですよ。
「先生がやってよ!」っていつも思っていました(笑)。

タカチョー

淡窓先生が規約や職任を行ったのも、全ては私たちのためです。
これからの日本を背負って立つなら、「勉強だけではなく、社会性を身につける必要がある」と考えていたからだと思います。

オマス

マーシーさんの言うように大変な面もありましたが、自分の個性を尊重しつつ、周りのことを考えられるようになったのは、咸宜園で学ばせてもらったことですね。

(広瀬淡窓って人は、教育者として色々と考えていた人なのか。)

ボク
月旦評(げったんひょう)
▲「月旦評(げったんひょう)」(提供:廣瀬資料館)

トークテーマ③創設者・広瀬淡窓について

オマス

続いて、広瀬淡窓先生についても思い出話があれば、話していきたいと思います。

タカチョー

淡窓先生は、6歳のころから習字を習いつつ中国の経書『孝経(こうきょう)』を読むなど、非常に勉強熱心な方だったようですね。
咸宜園を開く前は福岡にある亀井塾の門下生だったようですが、病気を患って大分に戻ってきたと聞いています。

オマス

その話、私も聞いたことがあります!
地元・大分に戻ってからは咸宜園の前身となった塾を開き、広瀬家の支援もあって発展していったんですよね。

マーシー

病気の話なら、僕も知っていますよ!
たしか、目が悪かったらしいですね。
「目を使いすぎると、だんだん失明に近づいていく」って聞いたことがありますが、「中二病か!」ってツッコみたくなりましたよ(笑)。

オマス

(ちょっ、マーシーさんあんまり言いすぎるのは……)
せっかくCLUB HOUSEで話しているので、他の参加者にも話を聞いてみましょう!

ソータン
ソータン
オマス

では、ソータンさん、何か感想があればお願いします!

ソータン

ありがとうございます。
みなさんの話は、懐かしく思うことが多くありました。
咸宜園を開いた当時の思い出や、生涯をかけて教育に専念していた日々。
マーシーさんの考えていたことも、今回初めて知りました。

マーシー

?!?!
ソータン…、そうたん…、たんそう…、淡窓??
ちょ、先生ですか?
えっと、、、

マーシー

……。

タカチョー

……。

オマス

……。

ソータン

……。

……。

ボク
オマス

気を取り直して、最後にもう1人の方から、感想を聞いてみましょうか!!!
最初から今までずっと聞いていた「ボクさん」!お願いします。

あ、今日は初めてCLUB HOUSEを使ってみましたが、まさか過去の幽霊?偉人?たちが集まっているとは思っていませんでした(笑)。
ただ、咸宜園が門下生を広く受け入れていた話は、多様性を重要視する現代にも通じる考え方だと思います!

あとは、個性や人としてのあり方を学び、社会で活躍されているみなさんをみて、自分も「やりたいことを見つけ、全力で臨もう」と思いました!

ボク
オマス

おおお、現代の方にも通じたようで良かったです!
また咸宜園のことも知っていただけたようで、思い残すことはありません。

咸宜園での日々は、すごく貴重なものです!
環境が全てとは言いませんが、みなさんも自分や周囲の人の個性を尊重して社会で活躍してもらえれば嬉しいです。

本日はありがとうございました!
ソータンさんとマーシーさんは、個別でやりとりしてくださいね(笑)。

廣瀬淡窓(提供:廣瀬資料館)
▲廣瀬淡窓(提供:廣瀬資料館)
広瀬淡窓の経歴

広瀬家の5代目・三郎右衛門の長男として生まれた淡窓。幼少期から勉学に励んでおり、6歳の頃には父から習字を習っていたほか、中国の経書『孝経』の講義も受けていた。16歳の時には福岡の亀井塾に入ったものの、病気が原因で帰郷することに。大分での療養も落ち着いた24歳になると私塾を開き、広瀬家の支援を受けながら発展させた。
新たに開いた咸宜園では入門者を広く受け入れ、約5000名の門下生が学んでいたと言われている。大村益次郎や高野長英、中島子玉など多くの偉人たちを輩出した。
広瀬淡窓は病気を患いながらも75歳までの生涯を教育に捧げた人物だ。

【ミニコラム①】
咸宜園ってどこにある?

咸宜園を代表する建造物の秋風庵
▲咸宜園を代表する建造物の秋風庵

今回の記事で取り上げた「咸宜園」は、大分県日田市に建てられました。現在は私塾の跡しか残っていませんが、隣接の咸宜園教育研究センターでは咸宜園に関する資料が数多く保管されています。
歴史に名を残す偉人たちが学んでいた咸宜園を、パワースポットとして訪ねてみても良いかもしれませんね。

【咸宜園教育研究センターの詳細】

住所/大分県日田市淡窓2-2-13

アクセス/大分自動車道「日田IC」から車で約7分

料金/無料

休館日/12/29〜1/3

【ミニコラム②】
広瀬淡窓の弟・久兵衛も凄い人だった!

広瀬久兵衛(提供:廣瀬資料館)
▲広瀬久兵衛(提供:廣瀬資料館)

広瀬淡窓の弟・久兵衛(きゅうべえ)は、現在の大分県知事・広瀬勝貞氏のご先祖さまであり、広瀬家は先祖の代から大分県に貢献してきました。
久兵衛は20代のころから大分県内の農業水利施設を整えようと、代官の塩谷(しおのや)とともに奔走。水郷とも呼ばれる日田に流れる水も、久兵衛が携わった小ヶ瀬井路工事があったからこそ。
このほかにも、宇佐市周辺の新田開発や大山町の交通整備など、幅広い事業に尽力してきました。
また、現場の声も大事にしていたのか、広瀬久兵衛は工事を行う時は現場の近くに住み込み、進捗を確認していたそうです。
今の大分県があるのも、彼の尽力が大きいのかもしれませんね。

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