先駆的なOitan

君は生きるために人肉を食べられるか。人間の葛藤を描く

小説家野上 弥生子

2021.03/12

大分県民にとって、醤油や味噌などで馴染み深い企業といえば、フンドーキンを思い浮かべる方もいるでしょう。
今回は、フンドーキン2代目社長の長女として生まれた野上弥生子(本名:ヤエ)をご紹介します。

彼女は、ひとりの母として、また小説家として99年にわたる人生を駆け抜けました。
文化勲章を受賞するほどの作品を生み出しながらも、「私は小説家だとは言えない」と話す弥生子は、どのような想いで100年近い人生を歩んできたのでしょうか。
家庭でも仕事でも自身の信念を貫いた弥生子の軌跡をたどります。

夏目漱石との関わりが小説家人生の序章だった

夏目漱石肖像
▲漱石全集より、夏目漱石肖像(国立国会図書館蔵)

伊藤博文が初代総理大臣に就任した1885年、野上弥生子は大分県臼杵市で生まれました。フンドーキンの2代目社長の長女として生まれた弥生子ですが、彼女は小説家としてこの世に名を残すことになります。

作家としての道を歩むまで

野上弥生子の若い頃
▲野上弥生子の若い頃(提供:臼杵市観光情報協会)

幼少期から漢文や古典などの個人授業を受けていた弥生子は、学校の成績が優秀でした。
しかし、上京して入った明治女学校では英語の授業についていけず、同郷の野上豊一郎に教えてもらうことに。
この関係をきっかけに、弥生子は明治女学校を卒業後に豊一郎と結婚します。

豊一郎が夏目漱石の弟子であり、弥生子自身も作家志望だったことから、彼女は処女作の『明暗』を夫に渡し、漱石に見てもらったそうです。

夏目漱石の弟子となる

野上弥生子が小説家としての道を歩み始めたのは1907年頃のこと。
『明暗』を読んだ漱石は弥生子宛てに批評文を送りますが、ここに書かれていた内容に深く感銘を受けたそうです。

「非常に苦心の作なり。然しこの苦心は局部の苦心なり。従って苦心の割に全体が引き立つ事なし。」(一部抜粋)

弥生子の作品には拙い部分も見受けられますが、夏目漱石からの批評は彼女の作品を否定するものではなく、むしろ将来に期待するものでした。
それは、弥生子に才能や知識がないことを指しておらず、「年齢や培ってきた経験が足りないだけだ」というものだったのです。

また、漱石からの批評には以下の言葉も残されています。

「もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず、文学者として年をとるべし」(一部抜粋)

漱石が伝えたかったのは「文学者として生きるのであれば、日々の生活をいいかげんに過ごすな」という弥生子への期待感でした。
弥生子への批評文は巻き紙に書かれていましたが、1m以上もの長さがあったそうです。そこには作品の批評だけでなく、作家としての生き方が丁寧に書かれていました。

漱石からの厳しくも温かい批評を受けた弥生子は、これを機に文学者としての道を歩み出します。

野上弥生子、22歳でデビュー!

そして『明暗』を書き上げた年と同じ1907年、夏目漱石の推薦もあって雑誌の『ホトトギス』に弥生子のデビュー作『縁(えにし)』が掲載されました。
以後、弥生子は『ホトトギス』では16編の小説をはじめ、写生文や翻訳を発表します。

夏目漱石は1916年に亡くなりますが、弥生子は1922年に『海神丸』を発表した際に、以下の言葉を残しています。

「私にとっては小説らしいものがやっと書けた最初の仕事かもしれない。それだけにほんの綴りめいたものが初期の幼稚な作品に対して常にご教授をおしまなかった夏目先生へのご恩を偲び、どうにかそこまでたどりついたのを見ていただけないのが残念でならなかった」

『海神丸』は後半で紹介しますが、彼女は亡くなる時まで小説家としてあり続けました。
彼女が99歳まで文筆の世界で活躍できたのも、夏目漱石との出会いが多分な影響を及ぼしていたのでしょう。
20代の時に漱石から言われた言葉をずっと大事にしていた姿は、まさに“ブレない信念”を体現していたのかもしれませんね。

実は恋愛ではブレていた?!

夏目漱石から「漫然と生きるな」と言われ、日々を小説家として生きるよう心がけていた弥生子ですが、「家庭を第一、小説を第二」として生きてきました。
しかし、恋愛の面では結婚後も初恋を引きずっていたほか、夫の死後65歳になっても恋愛をしていたのです。

ブレていたのか、ブレていなかったのか……。以下で詳しく紹介します。

初恋の人:中勘助(なかかんすけ)

中勘助
▲(Wikipediaから引用。「中勘助」 (2020年11月11日 (水) 13:24 UTCの版). 『ウィキペディア日本語版』)

『評伝 野上彌生子』によれば、野上弥生子の初恋の相手は小説家の中勘助だったと言われています。

彼は第一高等学校に通っていた学生であり、弥生子の夫である豊一郎と同級生。
さらには夏目漱石の門下生として文学の道を歩んでいたそうです。

小説の『銀の匙』が漱石に評価され、文壇で活躍していました。

一説には結婚後も「夫婦間にささった棘のような存在」として、弥生子の心に勘助の存在があったと言われています。

初恋の相手は確かに忘れ難いものかもしれません。
「恋愛でブレていた」というよりも、逆にブレていなかったとも考えられますね。

野上豊一郎

野上弥生子 家族写真
▲家族写真。右上:野上豊一郎、右下:野上弥生子(提供:臼杵市観光情報協会)

冒頭でも紹介しましたが、弥生子は同郷の野上豊一郎と結婚します。
豊一郎が友人に宛てた手紙には以下のようなことが書かれていました。

「僕のマリッジのことだがね、僕のワイフたるべき彼女は僕の知っているウィミンの中で最も心清く操正しく気もしっかりしている。当世のハイカラなおてんば娘では決してないと、これだけは僕の口より断言しておく」(一部抜粋)

結婚後は3人の子宝に恵まれ、周囲の手を借りながらも子どもたちを立派に育てあげます。弥生子が知識人であったためか、子どもたちは京都大学や東京大学の教授になったのです。

また、夫婦関係では大きなトラブルもなかったようですが、弥生子にとっての豊一郎は当時には珍しい人でした。

昭和25年に豊一郎が急逝しますが、弥生子は次のような言葉を残したそうです。

「あるじ(豊一郎)はまた良人と云ふより先生で、友達で、兄妹で、勉強仲間であった。」

弥生子にとっての豊一郎は、自身の理解者であり批評家でもあり、夫以上の存在だったのかもしれません。

若い頃は小説家を志していましたが、子どもや家族のことを考えて家庭と仕事のバランスを取っていた弥生子。
今で言う、ワークライフバランスのような考え方を持ち、常に「今の自分がやるべきこと」を貫いたのでしょう。

田辺元

野上弥生子 家族写真
▲(Wikipediaから引用。「田邊元」 (2021年2月10日 (水) 11:17 UTCの版). 『ウィキペディア日本語版』)

野上弥生子は65歳となっても恋愛をしていました。
豊一郎が亡くなってからのことですが、相手は弥生子と同じくパートナーを亡くした哲学者・田辺元。
70歳となる2人は互いの生活に気を使いながらも、300通にも及ぶ往復書簡を通じて、強い影響を与え合いました。

『田辺元・野上弥生子往復書簡』には、弥生子が田辺宛に書いた手紙の内容が紹介されています。

「あなたをなにと呼びませう 師よ 友よ 親しいひとよ いっそ一度に呼びませう わたしのあたらしい三つの星と」(一部抜粋)

ここでの「星」とは田辺元のことを指しており、高齢ながらも弥生子の乙女チックな一面が垣間見えます。

昭和を代表する女流作家と哲学者。老いてなお創作と思索の限りを尽くした両者のあり方は、恋愛という言葉では収まりきらない側面もあります。
しかし、2人の微笑ましくも知的な愛情関係は、「人生はまだまだこれから」というメッセージとしても受け取れるでしょう。

また、弥生子が惹かれたのは、自分に足りない哲学的な考え方を田辺が持っていたことも一因かもしれません。
さらなる高みを目指して知識や考え方を求め続ける弥生子は、生涯を通してブレない背中を見せているかのようです。

野上弥生子の作品はココが凄い!

約80年もの歳月を作家として生き続けた野上弥生子は、数々の名作を生み出してきました。小説や翻訳などを合計すると、その数50作以上。
手がけた作品のいくつかは文学賞にも認められましたが、ここでは代表的な2作品をご紹介します。

『海神丸』

野上弥生子の写実的な作品の中でも特に異彩を放つのが、1922年に発表された『海神丸』です。
この作品は「人肉を食べること」をテーマにしており、これだけを聞けばグロテスクな印象を抱く人もいるでしょう。
しかし本作では、貨物船の「海神丸」が難破したことで海の上に取り残された4名の乗組員が、「食料が尽きた時、人間はどう行動するか」を如実に描き出しています。

この物語は実際に起こったことを小説にしていますが、まるで自身が経験したことかのようなリアルさが高く評価されました。
「人の肉を食べること」は非常に重いテーマを扱いながらも、“本当の正しさとは何か”を読む者に訴えかけてくるかのような傑作です。

また、冒頭でも触れましたが、弥生子も「やっと小説家らしいものが書けた」と自負しており、本作がいかに丁寧に書き上げられたのかが伺えます。

『秀吉と利休』

執筆中の野上弥生子
▲執筆中の野上弥生子(提供:臼杵市観光情報協会)

1962年に発表された『秀吉と利休』は、後に野上弥生子の最高傑作とも評される作品です。
タイトルの通り、本作は戦国時代に活躍した豊臣秀吉と千利休の2人に着目し、両者の生き様が精緻に描かれています。
茶人で知られる千利休は、豊臣秀吉の側近でもあったが、後に秀吉との関係が悪化したために切腹にまで追い込まれた。
この歴史的な物語の真偽は諸説ありますが、野上弥生子は秀吉と利休が互いにどんな心情で当時を生きていたのかを一作にまとめ上げたのです。
なぜ二人の間に溝が生まれたのか、そしてなぜ秀吉は利休を自刃にまで追い込んだのでしょうか。

臨場感あふれる文体で描かれ、「自分の信念を貫けるかどうか」というメッセージ性が込められているかのようです。
長い人生の中で、自分の信念の妨げとなる障害が必ず訪れます。壁にぶち当たった時に、自分の信念を曲げるのか否かを考えさせる一作です。

この作品も高く評価され、昭和46年に文化勲章を受賞します。

おわりに

母であり小説家でもあった野上弥生子は、信念を貫いて生きてきた女性です。
学生運動や世間の動向に流されず、常に自身の見解と意見を持っていたとも言われています。
また、常に向上心を持っており「もっと上手く書けたのではないか」と、現状に満足しない性格でした。

野上弥生子が書いた作品が弥生子の思想の全てを表していないかもしれませんが、「本当の正しさとは何か」「自分の信念を貫くことの意義」を考えさせてくれます。
最後に弥生子が残した言葉をここに残します。

晩年の野上弥生子
▲晩年の野上弥生子(提供:臼杵市観光情報協会)

「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで務めよう」

野上弥生子さんの経歴

1885年、大分県臼杵市で生まれる。野上弥生子が15歳となる1900年、東京にある明治女学校に通うため上京。その6年後、同じ臼杵市出身の野上豊一郎と結婚し、小説家としての人生を歩み始める。3人の子宝に恵まれ「家庭を第一、仕事を第二」と位置付けながらも、家事の合間を縫って執筆活動を続けた。夏目漱石の指導の下、弥生子は処女作の『縁』を皮切りに、亡くなる直前まで書き続けた『森』まで、80年近くの文筆活動で数多くの作品を発表。1985年、野上弥生子は愛する家族たちに囲まれながら、齢99歳で静かに息を引き取った。

【ミニコラム①】大分で野上弥生子の生き様を知る「野上弥生子文学記念館」
野上弥生子文学記念館外観
▲野上弥生子文学記念館外観(提供:臼杵市観光情報協会)

大分県臼杵市で生まれ、文壇で多大なる功績を残した野上弥生子をたたえ、1986年に野上弥生子文学記念館が開かれました。
この建物は弥生子の生家である小手川酒造の一部を利用したもので、館内には幼少期の弥生子が勉強していた部屋や、晩年まで愛用していた執筆道具などが残されています。そのほか、漱石からの手紙や弥生子直筆の原稿など、野上弥生子にまつわる約200点の遺品が鑑賞できます。
ここは、弥生子のパワースポットと言っても過言ではありません。近くに訪れた際は、ぜひお立ち寄りください。

野上弥生子文学記念館の詳細

住所/大分県臼杵市浜町538

入館料/300円(大人)、150円(中学生まで)

アクセス/(車)大分自動車道「臼杵IC」より約15分。(徒歩)JR「臼杵駅」から約15分

定休日/不定休

【ミニコラム②】長野で野上弥生子の生活をたどる「軽井沢高原文庫」
野上弥生子文学記念館外観
▲野上弥生子が書斎兼茶室として使っていた(提供:軽井沢高原文庫)

45歳の野上弥生子が50年以上にわたって避暑地として滞在していたのが、北軽井沢大学村にある鬼女山房(きじょさんぼう)です。弥生子が活躍していた当時、この山房は文人たちとの交流の場としても使われていました。
現在は軽井沢高原文庫の敷地に移築されていますが、弥生子が書斎兼茶室として使っていた当時の姿を目にできます。
昔の日本家屋の風情を残しつつ、静かに流れる時間のなかで弥生子の99年に想いを馳せてみても良いでしょう。

軽井沢高原文庫の詳細

住所/長野県北佐久郡軽井沢町塩沢湖202-3

入館料/800円(大人)、400円(中学生まで)

開館時間/9:00〜17:00

アクセス/(車)上信越道「碓氷・軽井沢I.C」より車で15分。(徒歩)JR「軽井沢駅」より町内循環バスで「塩沢湖」下車すぐ。

定休日/12〜2月、そのほか臨時休館あり

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