旧鶴見町あたりでよく見かけるあのイラスト。
で、誰が描いたん?
漫画家富永一朗


2020年9月、大分県に激震が走った「吉四六漬け」の生産・販売終了のニュース。知らない人はいないソウルフードの味と共に忘れられないのが、パッケージに描かれた吉四六さんのイラスト。あれを描いたのは、昨年5月に96歳で逝去した大正生まれの有名漫画家、富永一朗。代表作はご存知「チンコロ姐ちゃん」です。
あれ?もしかしていやらしい言葉に見えてます? いやいや、「ちんころ」とは子犬や小さな犬のことですよ。だから「チンコロ姐ちゃん」は、小さくてコロンとした子犬みたいな女の子、という意味。でも実際の漫画には…女性の裸や下ネタが満載なんですけどね(笑)。
そんなちょいエロをかますギャグ漫画家・富永一朗ですが、大分とも縁が深く、実際は真面目で誠実な人だったとか。ちょっとエッチなギャク漫画に隠された、ホントの富永一朗とは?


富永一朗のプロフィール
1925(大正14)年、京都生まれ。漫画家。代表作は「チンコロ姐ちゃん」「ポンコツおやじ」など。1986(昭和61)年、漫画集「一朗忍者考」で日本漫画協会大賞受賞。1989(平成元)年、旧鶴見町に「富永一朗 海の漫画館」を開設。1992(平成4)年、紫綬褒章受章、1998(平成10)年、勲四等旭日小綬章受章。2021(令和3)年5月、老衰のため東京都世田谷区の自宅にて亡くなる。自分でデザインした球体の墓石の下で、チンコロ姉ちゃんのイラストに見守られながら眠る。

まさに波瀾万丈!パンチの効いた幼少時代
京都で生まれた一朗少年は、3歳の時に父親を肺結核で亡くします。残された母親と一朗ら兄弟3人は福島にある母親の実家に身を寄せますが、数年後、母親は子どもたちを養育するために教師になろうと、大学に入学すべく単身東京へ。一朗ら兄弟は、佐伯市にある父親の実家に預けられ、祖父母に育てられました。その後小学4年生になるまで母親とは会えなかったそうですが、その後さらに凄いことが…。無事教師となり、大分県内の学校で裁縫を教えていた母親が、なんと恋愛事件を起こし、あげく妊娠! 子どもたちを残して蒸発してしまいます…。後日、この時のことを一朗は、「子どもながら、『一生許さない』と怒り狂ったあの日の苦い思い出は、今もなお鮮明に記憶している」と振り返っています(切ない…)。
両親不在の少年時代はかなり貧しい生活で、大学進学も諦めかけましたが、台湾にタダで行ける師範学校(旧制の教員養成学校)を発見! 第二次世界大戦中の1943年3月に台湾へ渡ります。しかし戦争が激化したため2年後には軍隊に入隊し、敵機の爆撃だけでなく味方の破裂弾からも逃げ回る日々を経て、終戦を迎えました。その後、台南郊外の小学校へ赴任しますが今度は台湾が中国に返還されたため、わずか3カ月でクビに!(泣)。日本への引き揚げ船に乗れるまでの3カ月間をベンチで寝て過ごしたり、マラリアにかかったり、なかなかなサバイバルな日々を過ごしたようです。
戦後の混乱期、佐伯市で二度目のクビ宣告
やっと佐伯市に戻れたのが、21歳になった1946年3月。2年弱は炭屋でたどん(木炭や石炭の粉をボール状に固めた燃料)作りに励み、市内の小学校からの声掛けで教師として働くことに。5年生の担任となり、最初は無難に大人しくこなしたそうですが、当時はまだまだ戦後の混乱期。ろくに教科書もなかったため、自分のクラスを「子供の村」とし、自作の「子供の村の歌」を毎朝歌わせるなど、やりたい放題の自由教育を展開します。子どもたちには大ウケだったものの、1学期が終わる頃にはクラス担任から図画工作の専門教師に配置転換されました。元来漫画好きだったこともあり、本人は大抜擢!!と喜んだそうですが、実際には降格処分だったらしく、10月には人生二度目のクビを宣告されてしまいました。その後すぐに母校の小学校の校長から図画の教師として誘われ、再び教職に就きますが、結局性に合わなかったようで1951年の春、漫画家を目指し上京します。
ギャグ漫画家・イチロー誕生
住まいも決めずに上京した一朗が飛び込んだ先は、なんと「一生許さない!!」と心に刻み、12年も会っていなかった母親の元でした。密かに産んだ弟と二人で暮らしていた母子寮に転がり込んだそうです。一朗は「サンデー毎日」などに漫画を投稿し、編集者の吉行淳之介から才能を認められ、多くの作品が雑誌「講談讀切倶楽部」に掲載されるようになりました。芥川賞作家でもある吉行淳之介は、会うたびに「漫画は立派な芸術だから、頑張りなさい」と励ましてくれたといいます。一朗も救いの神だと言うほど、よき理解者でした。
そして「チンコロ姐ちゃん」や「ポンコツおやじ」などのギャク漫画家として知られるようになり、1976年から始まったテレビ番組「お笑いマンガ道場」には、第1回の放送からレギュラー出演。18年間続く長寿番組となりますが、番組が終了するまで一度も休むことなく皆勤賞で出演しました。そしてこの「お笑いマンガ道場」の影響で、日本全国のどの世代にも、その名と顔と作風が知られる超有名漫画家となったのです。
鶴見町を愛し、鶴見町に愛された男
有名な漫画家先生となった富永一朗が、再び大分県、というかピンポイントで鶴見町(現在の佐伯市鶴見町)との関係が深くなるのは1980年頃から。当時の安倍幸雄町長との縁で、鶴見町公民館の緞帳を富永一朗の漫画で作ったのが始まりでした。「日本初の漫画の緞帳ということで、かなりテレビでも取り上げられたんですよ」と教えてくれたのは、当時鶴見町職員だった浜野芳弘さん。
一朗の夢は漫画美術館を作ること。ならば日本で最初に鶴見町に作ろうと、1989年、九州最東端にある鶴御埼灯台の下に「富永一朗 海のまんが館」をオープンさせます。一朗本人も寄贈し、計31点の原画が飾られました。その後、鶴見町を含め全国9カ所に富永一朗漫画館・漫画廊ができたそうです。







この漫画館のオープンをきっかけに、翌年鶴見町主催の「富永一朗漫画大賞」を創設。その担当となったのが浜野さんでした。募集したのは4コマや短編ではなく、1枚漫画。しかも毎回、海に関連したテーマが設けられました。「1枚の絵でいかに表現するか、なかなか難しいんですよ」と浜野さん。応募数も、初回の225点から、第8回には650点にまで増加。全国各地から質の良い作品が集まるようになり、時には海外からの応募もあったとか。大賞には50万円(のちに30万円に変更)の賞金が出るなどかなり大規模な漫画賞で、しかも審査するのは、審査委員長でもある一朗自身。「(応募作品を)大会議室に全部並べて、先生がずーっと見て回るんです。丸1日かかりましたよ」と当時を振り返る浜野さんは、一朗を大分空港まで町長車で送迎するなどアテンドも担当。そんな浜野さんが感じた一朗の印象は、気さくな人。「偉ぶるところなんて何もなくてね。イベントの時なんか町民が色紙を持ってくれば、サーッとサインを描くし。本当に飾らない人でした。飲食店にいる時は『皿に描いてあげるよ』と、チンコロ姐ちゃんの絵を描いてくれたりしよったですねぇ。描くためのマジックも全部自分のカバンに入れてましたよ。すごいなぁって感心しましたね」。一朗は、鶴見町にも鶴見町民にも愛される存在でした。


先祖の歴史に、感動!ファミリーヒストリー
当初、少年時代を過ごしたのは旧佐伯市なので、鶴見町とは関わりがないと思われていたそうですが、江戸末期、跡取りがいない佐伯の富永家が養子にしたのが、鶴見町で染物屋をしていた一朗のひいお爺さんだった事が発覚。一朗も漫画館開館の際には、「遠い祖先は鶴見町の出身、その地に心を込めた作品を飾ることができて、胸の鼓動は鳴り続けています。えにしの糸にたぐられて…と思えてなりません」と言葉を寄せています。まさにファミリーヒストリー!
応募作品の質も向上し、評判も良かった漫画賞でしたが、平成の大合併を機に第15回を最後に終了。そして残念ながら、富永一朗と鶴見町のつながりもここで終わってしまいました。
しかし、鶴見町では今でも一朗の作品を見ることができます。つるみ地区センターに移った「富永一朗 海の漫画館」のほか、同じセンター内にある鶴見地区公民館のホールでは、今も一朗の緞帳が現役で活躍中です。さらに、「新有明トンネル」や「小浦・中越ふれあいトンネル」の出入り口のレリーフ、海を臨む県道604号沿いにある「鶴見浄化センター」のシャッターのイラストなどもあり、佐伯市中心部の国道217号沿いの「イチローロード」と名付けられた区間には一朗のイラストが描かれた有田焼のプレートがずらりと並んでいます。



佐伯市は、新鮮な魚介類が有名な町。一朗作品を巡りながら、おいしい海鮮料理を味わうプチ漫画旅を楽しむのもおすすめです。
おわりに
一朗自身も知らなかったひいお爺さんの出身地だった鶴見町に、日本で最初に富永一朗の漫画館ができたというのは、とても縁を感じますよね。その縁を繋ぐきっかけになった緞帳は普段は公開していませんが、「富永一朗 海のまんが館」では原画の色鉛筆の繊細な色合いも楽しめるのでぜひ訪ねてみてください。一朗直筆のプロフィールも必見ですよ。
※参考文献:富永一朗の快老人生(株式会社 婦人生活社)
富永一朗海の漫画館
開館当初鶴御埼灯台にあったが、2001年に現在の鶴見地区公民館内に移転。円筒形の建物の中に、色鉛筆で描かれた海をテーマにした原画や漫画集、グッズなどが展示されている
住所 佐伯市鶴見沖松浦 鶴見地区公民館内
電話 0972-33-1000
開館 9:00〜17:00
料金 無料
休み 祝日、年末年始(12/29〜1/3)
P あり
