アートに惹かれたOitan

東洋のロダンって誰やねん!西洋のロダンがツッコミを入れてきた!!

東洋のロダン朝倉 文夫

2021.01/29

大分県で生まれ育った朝倉文夫は、彫刻や塑像などの彫塑の分野で多大な功績を残した人物です。精緻な技巧で一体一体を制作し、「東洋のロダン」とも呼ばれるようになりました。

しかし「東洋のロダン」といっても、イメージしにくいですよね?「そもそもロダンって誰やねん」と思う方も少なくないはず。
そこで、今回は『考える人』を生み出したオーギュスト・ロダンと、東洋のロダンこと朝倉文夫を対談させてみました!

朝倉文夫は、ただ凄い人物ではなく人間味あふれる一面を持ち、西洋のロダンとの共通点も数多くありました。以下で詳しく見ていきましょう!

対談前にプロフィール紹介

対談の前に、2人のことを簡単にご紹介します。

彫刻作品(「砲丸」)と並ぶ朝倉文夫
▲彫刻作品(「砲丸」)と並ぶ朝倉文夫(提供:朝倉文夫記念館)

【朝倉文夫】
1883年に大分県で生まれ、1964年の81歳で亡くなる。彫刻や塑像の分野で活躍。『墓守』や『滝廉太郎君像』などを手がけ、「東洋のロダン」とも称される。猫が好き。

ロダンと考える人
▲誰もが知っている作品「考える人」と並ぶ晩年のオーギュスト・ロダン(提供:Getty Images)

【オーギュスト・ロダン】
1840年にフランスで生まれ、1917年の77歳で亡くなる。「近代彫刻の父」とも呼ばれ、代表作に『地獄の門』や『考える人』などがある。女が好き。

それぞれのプロフィールを大まかにまとめましたが、今は「なんとなく凄い人たちなんだなぁ」と思っていてください。
2人の偉大さや人間らしい一面は対談の中で紹介していきます!
それでは、対談を見ていきましょう!

学生時代は落第ばかりの2人

昔の教室

ロダン

朝倉くん、「東洋のロダン」って呼ばれているらしいが、なぜワシの名前を使っておるのじゃ?
ワシは学生時代から貧乏で、めちゃくちゃ苦労していたんじゃ。
東洋のなにがしは大したことないんじゃろ。

朝倉文夫

ロダンさん、恐縮です。彫刻の偉大な先輩として尊敬しています。
私も学生時代から苦労していたんです(笑)

ロダン

そうなんか? ワシ、14歳で帝国素描学校に入学できたのは良いが、国立高等美術学校を受験して3回も落ちたんじゃ。
せっかく彫刻家の道を目指したのに、「彫刻は美化するのが伝統」とか「モデルに似過ぎている」とか言われて、落とされたんじゃ。

朝倉文夫

私も落第を経験しています(笑)。
私の場合、大分尋常中学校竹田分校(現在の大分県立竹田高等学校)を受験したんですが、ロダンさんと同じく3回も不合格でした。

ロダン

ワシも人のことは言えんが、そんなアホだったのか?

朝倉文夫

……。
3回も落第する私を見かねた母の勧めもあり、私の9歳上の兄・渡辺長男(わたなべおさお)を頼って上京したんです。

ロダン

頼れる兄弟がおるとは、恵まれておるのぉ。

朝倉文夫

そうですね。渡辺家に生まれた私は朝倉家に養子に出されたんですが、渡辺家の実の兄を頼れたのは幸いでした。

行き当たりばったりで彫刻家になった2人

朝倉文夫(M43頃)・ロダン若い頃
▲若い頃の2人。左が朝倉文夫(提供:台東区朝倉彫塑館)、右がロダン(Wikipediaから引用。「Auguste Rodin」 (2021年1月11日(月)05:06 UTCの版). 『ウィキペディア英語版』)

ロダン

で、そこから彫刻家になったと?

朝倉文夫

東京の兄はすでに彫刻家として活躍していたんですが、当時の私は俳句に興味があったので、正岡子規さんに弟子入りしようと考えていました。

ロダン

彫刻じゃないんかい∑( ゚Д゚ノ)ノ!!

朝倉文夫

そうなんですよ。ただ、私が上京したタイミングで正岡先生が亡くなっていたので、結局は兄の行っている彫塑(ちょうそ)の道を進むことにしました。

ロダン

そんなエピソードがあったんじゃな。

ワシも受験に失敗してから一旦は彫刻の道を諦めた。親父が仕事辞めたこともあって、ワシが家計を支える必要があったんじゃ。
装飾の仕事に就いてからは、動物彫刻家のべルーズ師匠の下で働いて、美術館の装飾とか小型の胸像とかを作っておった。

朝倉文夫

彫刻家を諦めて、装飾の仕事をしていたんですね。
でも、最終的には彫刻家になったと。

ロダン

師匠が「ベルギーに工房を移す」って言うから、ワシも単身でベルギーに行ったんじゃが、彫刻家として初めて出品することになったのは、ある作品との出会いがきっかけじゃった。
ベルギーに移ってからイタリアに旅行したが、ミケランジェロの見事な作品を見て「本気で彫刻家を目指そう」と考えたのじゃ。

ダビデ像
▲1504年にミケランジェロが制作した「ダビデ像」

朝倉文夫

ルネサンス文化の息づくイタリア!羨ましいです。
ミケランジェロのアートがロダンさんの作品にも影響を及ぼしたんですか?

ロダン

ミケランジェロの作品から情熱が湧き、最初に取り掛かったのが『青銅時代』じゃ。そこからワシの彫刻家としての人生が始まったと言えるな。

少しずつ知名度が高まる2人

考える人
▲知らない人はいない「考える人」。実は当時、ロダンは『詩人』と名付けた

ロダン

彫刻家を目指してからは、順調だったのか?

朝倉文夫

そうでもなかったですね。必死に勉強して東京美術大学(現在の東京芸術大学)に入学できましたが、モデルを雇うお金もありませんでした(笑)。

ロダン

お金がない大変さ、分かるぞ!ワシはなんとか仕事ができておったが、朝倉くんはどうやって稼いでいたんだ?

朝倉文夫

学校の教授から貿易商の方を紹介してもらったのが仕事に繋がりました。
1日1体のベースで動物の像を作って、1200体以上は制作しましたね。
在学中に海軍省の三海将の銅像『仁礼景範中将像』で1等を獲得してから、徐々に注目されるようになりました。

ロダン

1日1体!?作り過ぎじゃろ!!( ´Д`)っ))Д゚)・∵.

しかし、生み出した作品が評価されるのは良いことだ。ワシなんて、『青銅時代』をパリで発表した時は、あまりにも上手く作り過ぎて「人体で型をとったのでは?」と疑われたこともあった。
まぁ、2年後には等身大よりも大きめの作品を作って見返してやったんじゃがな(笑)。

朝倉文夫

そういえば、ロダンさんの作品で有名な『地獄の門』さらには、そこから派生して生まれた『考える人』もこの頃の作品ですよね?

ロダン

そうじゃな。当時は創作活動に力を入れていたが、女性彫刻家のカミーユ・クローデルに惹かれたこともあったのぉ。

朝倉文夫

ロダンさん、奥さんいましたよね……?

ロダン

仕方ないじゃろ!ワシに劣らぬほどの才能を持っておったし、何より魅力的だったんじゃ!
カミーユも作品も素晴らしかったために、ワシの作品にもかなり影響しておるぞ。

カミーユクローデル

朝倉文夫

カミーユさんとはその後も交際していたんですか?(笑)

ロダン

ワシに「アイデアを盗まれる!」と言って、別れてしまったわ……。
それよりもワシがお主に質問をしておるのじゃ、話を逸らすでない!

一躍脚光を浴びることとなった2人

ロダン

カミーユとの関係は置いといて、朝倉くんは彫刻作りで大切にしていたことはあったのか?

朝倉文夫

私が作った作品の中では、1910年に発表した『墓守』が最高傑作と言われています。特に強いテーマ性はありませんが、自然主義的な写実を貫いたリアルさが評価されたようです。
私が写実性を大事にしていたのは、故郷・大分の自然が大きく関わっています。

作品「墓守」写真
▲1910年に製作された朝倉文夫作品の「墓守」(提供:朝倉文夫記念館)

ロダン

ほほう。大分がまさに朝倉くんの原点というわけじゃな。

朝倉文夫

そうですね。山や川といった豊かな自然だけでなく、両親や祖父母からたくさんの愛情を受けて育ったこともあり、そうした想いが作品に現れていると思います。

ロダン

朝倉くんの作品はどこで見られるんじゃ?

朝倉文夫

いくつかありますが、東京にある「台東区立朝倉彫塑館」や、大分県にある「朝倉文夫記念館」で見られます。
「台東区立朝倉彫塑館」は自宅兼アトリエとして使っていましたが、後に弟子を受け入れる場として使っていました。
また、「朝倉文夫記念館」は私の好きな猫を題材にした作品をはじめ、兄弟たちの作品を残す施設を作ろうと考えたのが始まりでした。

朝倉文夫記念館外観
▲朝倉文夫記念館外観(提供:朝倉文夫記念館)

ロダン

好きなものを題材にするのは、芸術家あるあるかもしれんな。それほどまでに猫が好きだったのか?

朝倉文夫

自宅で10匹以上の猫を飼うほど、大好きでした(笑)。
1964年の東京オリンピックに合わせて「猫百態」という企画を進めていたんですが、その前にこの世を去ることになり実現しなかったのは本当に残念です。

猫と戯れる文夫
▲猫と戯れる朝倉文夫(提供:台東区朝倉彫塑館)

ロダン

死ぬまでアートに関わり続けようとするとは、見事じゃ!
猫だけでなく、これまでの作品に故郷での思い出が生かされるほど、朝倉くんは心から大分を愛していたんじゃのぉ。

朝倉文夫

ポンコツだった私が彫塑家として大成できたのも、母や兄弟の協力があったからこそです。
「朝倉文夫記念館」の完成前に私はこの世を去りましたが、私の思いを引き継いで1991年に完成したのは嬉しいです。

ロダン

「東洋のロダン」って誰やねん!!と思っておったが、名に恥じぬなかなかに素晴らしい人格者じゃな。
今回の対談を通じて、意外にも共通点が多かったのは驚きじゃったが、人生はどうなるか分からないものじゃな。

朝倉文夫

その通りだと思います。
好きなことや得意なことを突き詰めることや、人との繋がりも大事だと感じています。

ぜひ、私の愛した大分に住む人たちにも、自分の「好き」を貫き通してもらいたいですね。

朝倉文夫肖像写真(晩年)・ロダン60歳
▲左:晩年の朝倉文夫(提供:朝倉文夫記念館)、右:ロダンが60才の時(提供:Getty Images)
朝倉文夫の経歴

1883年に大分県大野郡上井田村(現在の豊後大野市朝地町)で11人兄弟の5番目の子として生まれる。10歳の頃に朝倉種彦の養子となり、大分県尋常中学校竹田分校を受験するが、3度も落第。兄を頼って上京してから俳句に興味を示すが、師事しようと考えていた正岡子規が亡くなったために彫塑の道へ進むことに。
東京美術学校に入学後は、貿易商の注文で1200体にも及ぶ動物の像を制作したほか、作品の『仁礼景範中将像』が評価され、注目されるようになった。
朝倉文夫が27歳となる1910年には、彼の最高傑作とも言われる『墓守』を発表。その後、東京美術学校の教授就任や文化勲章の受章など、名実ともに高い評価を受ける。

【ミニコラム①】朝倉文夫はこんなところにも関わっていた
雪月花
▲銘菓「雪月花」(提供:橘柚庵 古後老舗)

故郷・大分を愛した朝倉文夫は、当地の銘菓「雪月花」のパッケージにも携わりました。
掛け紙の絵は、大分が生んだ画家・福田平八郎が描き、題字は朝倉文夫の字です。
大分県民なら食べたことがあるかもしれませんが、この雪月花は口に入れると柚子のほのかな香りが楽しめます。

【雪月花の詳細】

店舗/橘柚庵 古後老舗

住所/大分市千代町3-1-10

アクセス/大分自動車道「大分IC」から約10分

【ミニコラム②】朝倉文夫は滝廉太郎の後輩だった
滝廉太郎像
▲滝廉太郎君像。朝倉文夫が制作

以前、滝廉太郎について紹介しましたが、朝倉文夫は廉太郎と繋がりがあり、彼の銅像を作ったのも朝倉文夫です。
銅像の裏には「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳、この2つの教室は丁度向かい合ってゐたので、印象は割に深い。(一部抜粋)」と書かれています。
幼少期から才気あふれる滝廉太郎の姿が、朝倉文夫にも深い印象を与えていたのでしょう。

ただの眼鏡じゃない!滝廉太郎のハンパねぇ生き様

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