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ただの眼鏡じゃない!滝廉太郎のハンパねぇ生き様

天才作曲家滝 廉太郎

2021.04/01

音楽の教科書でも紹介されている滝廉太郎は、天才作曲家として名を馳せた人物です。
彼の人物像についてはあまり語られることがなく、なんとなく「暗い感じの眼鏡の人」として認知している方もいるでしょう。しかし、23歳という若さでこの世を去った滝廉太郎は、短くもハンパなくイケてる人生を送ってきました。
今回は、家族や周りの友人を大切にし、さらには大分県を心から愛した滝廉太郎の生き様をご紹介します。滝廉太郎と同世代、あるいは今の自分と照らし合わせながら、これからの人生を見つめるきっかけにしてみてください。

ハンパない滝廉太郎【オシャレ編】

まずは、なんとなく「滝廉太郎=暗い」と思っている方のイメージを覆すために、彼がいかにオシャレだったかを紹介します。

今でこそオシャレな丸眼鏡

今でこそオシャレな丸眼鏡

滝廉太郎は幼少期から眼鏡をかけていましたが、当時は地方にまで眼鏡が普及していませんでした。国内で眼鏡の製造が本格化したのは、明治維新後の1870年頃 からだと言われています。

1879年に東京で生まれた滝廉太郎ですが、父・吉弘の仕事の都合で家族と共に神奈川や富山などへ移り住み、大分県の竹田へとやってきたのは1891年のこと。
地方では珍しかった眼鏡をかけていた滝廉太郎は、転校先の子どもたちから「眼鏡なんかしやがって、生意気な!」といじめ に遭ってしまいます。
しかし、5回の転校を経験してきた滝廉太郎は、いじめへの対策も万全でした。密かに練習していたコマ回しを披露し、学校内で人気者へと上り詰めたのです。

ちょっと前までは「丸眼鏡はダサい」というイメージもありましたが、今では有名人のファッションにも取り入れられるほど、丸眼鏡はオシャレなアイテムになりました。洒落た眼鏡を身につけるだけでなく、特技を披露することでいじめ問題を解決した滝廉太郎は、幼少期からその頭角を現していました。

第一ボタンだけをしめるファッションリーダー

今でこそオシャレな丸眼鏡

あまり知られていませんが、滝廉太郎は制服の着こなしもオシャレです。
1894年に最年少で東京音楽学校に入学した滝廉太郎は、学ランの第一ボタンだけを留めて通学していました。

普通の学生とは一線を画す滝廉太郎のファッションは学友たちにも影響を及ぼし、「第一ボタンだけ」のスタイルが学校中で流行します。

ちなみに、卒業式で好きな女子に第二ボタンを渡す文化は、ブレザーの登場と共に薄れつつありますが、詰襟タイプの制服に付いたボタンにはそれぞれに意味がありました。

・第一ボタン:自分自身
・第二ボタン:好きな人、大切な人
・第三ボタン:友人
・第四ボタン:家族
・第五ボタン:他人

地域や時代によって意味が変わることもあるようですが、第一ボタンだけを留めていた滝廉太郎は、自分らしさを大事にしていたのかもしれませんね。
彼の人生については後ほど詳述しますが、親の反対を受けつつも音楽の道へと進む覚悟が見た目からも滲み出ていたのでしょう。

ハンパない滝廉太郎【スポーツ編】

ハンパない滝廉太郎【スポーツ編】

滝廉太郎は、「ただの眼鏡をかけた音楽家」というだけではなく、テニスプレイヤーとしても優れていました。
1898年に東京音楽学校を卒業した後、滝廉太郎は東京音楽学校の研究科に進学します。この頃はピアノ教師として活躍しつつも、日本に伝わって間もないテニスに熱中していました。
持ち前の努力と負けん気からか、テニスの練習に明け暮れた結果、学校では右に出る者がいなかったと言われています。

品のある整った顔立ち、音楽に一心に取り組む姿勢、さらにはテニスの腕もピカイチとあって、女子たちからもモテていたそうです。

ハンパない滝廉太郎【生き様編】

滝廉太郎の暗いイメージを払拭できたところで、彼がどんな人生を歩んできたのかを見ていきましょう。

音楽との出会い 父との確執

父・滝吉弘。大久保利通の右腕としていた活躍していた

▲ 父・滝吉弘。大久保利通の右腕としていた活躍していた(提供:竹田市役所)

父の転勤に伴い、滝廉太郎は大分県竹田市に引っ越しました。幼い頃から美術や音楽に対して興味を持っていた廉太郎は、転校先の直入郡高等小学校に置かれていたオルガンに惹かれます。新任教師の後藤由男が毎日のように廉太郎にレッスンを行い、彼は音楽家への夢を抱きました。
しかし、彼の夢に立ち塞がったのが父・吉弘の存在です。「音楽は女子のするもの」と考えていた父に、廉太郎は反論することができませんでした。
そんな中、廉太郎の味方になってくれたのが従兄弟の大吉です。先進的な考えを持っていた大吉は、日本では浸透していなかった音楽に興味を持つ廉太郎を応援しており、父を夜通し説得したそうです。

瀧大吉家族と廉太郎の写真

▲ 瀧大吉家族と廉太郎の写真。左上が大吉(提供:竹田歴史文化館・由学館)

「天分を全うさせてやったほうが本人のためではないか」

大吉の説得の甲斐もあり、廉太郎は父の許しを得ることができました。
ここから、彼の音楽家としてのハンパない人生が幕を開けたのです!

難関学校へ最年少の合格と首席での卒業

東京音楽学校入学した頃の滝廉太郎

▲ 東京音楽学校入学した頃の滝廉太郎(提供:竹田歴史文化館・由学館)

1894年9月、15歳の滝廉太郎は史上最年少で東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽部)へ入学を果たしました。音楽への勉強に励む廉太郎ですが、日本人初の留学生として6年間のドイツ留学から帰ってきた幸田延(のぶ)に弟子入りを願い出ます。
彼女は文豪・幸田露伴(ろはん)の妹であり、廉太郎がこれまでに聴いたことがないほどの演奏をする才気溢れる実力者です。廉太郎は弟子入りするために延に頭を下げたと言われていますが、当時の日本社会では「男が女に頭を下げる」のは信じられないことでした。

後に日本の音楽会に革命をもたらす廉太郎ですが、並々ならぬ成果を出せたのも、こうした常識に捉われない生き方を貫いたからかもしれません。
「ハンパない」というより、もはやかっこいいですね。

生涯のライバルと出会う

東京音楽学校講堂にてピアノを弾く滝廉太郎

▲ 東京音楽学校講堂にてピアノを弾く滝廉太郎(提供:竹田歴史文化館・由学館)

東京音楽学校での生活は、廉太郎に次の出会いをもたらします。
その人物こそが、廉太郎の生涯のライバルであり、師の幸田延の妹・幸(こう)です。
ウィーンから帰国した彼女のピアノの演奏を聴いた廉太郎は、自分の実力に自信が持てないほど落ち込んでしまいます。しかし、音楽への情熱を諦めきれない廉太郎は、「演奏家としてダメなら、作曲家で一番になろう!」と心に決めます。
『日本男児』などの作曲も手掛けた廉太郎は、ピアノの腕もトップクラスだったこともあり「学校内で初の留学生になるのでは?」と囁かれていました。当時の日本では男子学生の留学を期待する声も数多くありましたが、実際に留学生に選ばれたのはライバルの幸でした。

その後、廉太郎の元にも文部省から「ピアノと作曲研究のためにドイツ留学へ行くように」との命令が下りますが、廉太郎は留学延期願いを申し出ます。
廉太郎は「日本の作曲家として、国内で何も成さずに留学できない」と考えていたそうです。

滝廉太郎のハンパない生き様は、信念を貫くことが根底にあったのかもしれません。

日本の音楽会に革命をもたらした『荒城の月』

岡城跡。滝廉太郎が『荒城の月』を作曲する際にイメージしていた場所。

▲ 岡城跡。滝廉太郎が『荒城の月』を作曲する際にイメージしていた場所。(提供:竹田市役所)

土井晩翠が作詞した『荒城の月』をきっかけに、廉太郎はドイツ留学を果たすことになります。
これまでの日本の音楽は、欧米のメロディに日本語の歌詞を無理やり載せただけのもの*1であり、日本独自の曲といっても「ファ」と「シ」の音階が使われていませんでした*2
「西洋音楽に負けない曲を作ろう!」と考えていた廉太郎は、故郷・大分の岡城を思いながら『荒城の月』の作曲に臨みます。
連日連夜に及ぶ試行錯誤の末に誕生した『荒城の月』は、「ファ」の音が使われていました。そして、その次に作曲した『花』では「ファ」と「シ」の音階が使われ、日本で初めて西洋音楽に引けを取らない曲が完成したのです。

それまでの常識を打ち破る姿勢は、音楽会の革命児といっても過言ではないでしょう。

*1 明治の日本では文部省の音楽教育機関「音楽取調掛」が先導し、日本人による独自の音楽を興すことを掲げていた。しかし、音楽教育が始まったばかりの日本では独自の音楽を作ることは難しく、当初は欧米の曲に日本の歌詞を載せたのが始まりだと言われている。
*2 明治期には、四七(ヨナ)抜き音階といわれる「四(ファ)」と「七(シ)」を抜いた曲を作るよう政府から指示があった。諸説あるが、日本の民謡などの日本音楽で西洋化を図るために音階を合わせると四七抜きが合致すると言われている。

自信をつけた廉太郎はドイツ留学へ

ドイツ留学出発前の滝廉太郎

▲ ドイツ留学出発前の滝廉太郎(提供:竹田歴史文化館・由学館)

『荒城の月』や『花』の作曲で一躍脚光を浴びた廉太郎は、ドイツ留学へ出発します。廉太郎が22歳のことでした。
「音楽の街」とも評されるドイツのライプチヒ音楽院に合格した廉太郎は、自身が作曲した『荒城の月』を披露し、「ブラームス*3の曲のようだ!」と絶賛されます。
順風満帆だった廉太郎ですが、風邪が原因で肺結核を患ってしまいます。入院することとなった廉太郎の元へ、在留していた多くの日本人たちが見舞いにやってくるほど、廉太郎は友人に恵まれていました。また、ライバルの幸も廉太郎が食べたがっていた福神漬け をベルリンで手に入れ、見舞いの品として送ったという話もあるようです。

しかし、1901年に廉太郎は病気のために音楽院を退学し、日本への帰国を余儀なくされます。

念願のドイツ留学が叶ったのに、切なさがハンパないです!!

*3 ブラームスは、バッハやベートーヴェンと並び「三大B」に数えられるほどの作曲家。古典的な楽曲を生み出しつつも、曲の中に秘められた情熱が魅力である。

廉太郎が最期に生み出した『憾』

『憾』の完成譜表面。タイトルが書いている

▲ 『憾』の完成譜表面。タイトルが書いている(提供:竹田歴史文化館・由学館)

廉太郎の帰国後、彼の身を案じた従兄弟の大吉はあらゆる手を尽くしますが、大吉自身も脳溢血(のういっけつ)でこの世を去ってしまいました。
大分に戻った廉太郎ですが、母や周りの人に当たる始末。故・大吉の奥さん宛に手紙を出しており、「楽しみは何もなく、見聞きするものが全てつまらなくなった」と記しています。

しかし、廉太郎は作曲をやめることはありませんでした。失意の底にありながらも音楽への情熱は冷めず、1903年に『憾(うらみ)』を生み出します。
少し怖く感じるタイトルの『憾』ですが、これは周囲に向けられたものではなく、若くして死ぬことに対する未練が表現された曲です。

また、大分に戻ってから父と話すことはほとんどありませんでしたが、父に対して唯一「お父さん、御恩の万分の一もお返しできず、お許しください」と言ったそうです。『憾』を生み出し、父への最期の言葉を残した廉太郎の想いは、どんなものだったのでしょうか。
滝廉太郎の人生は、23歳という若さで幕を引きますが、自分の才能を信じてくれた家族や、互いを高めあったライバルの存在があったからこそ、今なお親しまれる名曲が生み出されたのかもしれません。

現在は、滝廉太郎が活躍していた当時よりも医療が発達し、若者が病気で亡くなることは減ってきました。しかし、廉太郎が「生きたい」と切望するほど、私たちは「今」を懸命に生きているのでしょうか。

名曲の数々を残しながらも「生きたい」と願った廉太郎から学び、私たちは自分の「生き方」を見つめ直すことが必要なのかもしれません。

生前の滝廉太郎

▲ 生前の滝廉太郎(提供:竹田歴史文化館・由学館)

滝廉太郎の経歴

1879年に東京で生まれる。政府に勤めていた父の転勤に伴い、神奈川や富山などへ移り住んだ後に、大分で暮らす。大分の小学校で先生にオルガンの弾き方を教えてもらったことがきっかけとなり、音楽家を目指す。1894年には最年少で東京音楽学校に合格し、幸田延に弟子入り。
『荒城の月』をはじめ数多くの作曲を手がけ、1901年にドイツへ留学するも、肺結核を患ったため、入学から2ヶ月ほどで帰国。大分で静養していたが、23歳の時に『憾』を作曲し、この世を去った。

滝廉太郎が生み出した曲は、『雪やこんこん』『鳩ぽっぽ』『桃太郎』など34曲が確認されている。

【ミニコラム①】『憾』に残された滝廉太郎の想い
『憾』の草稿譜。修正の跡がある。

▲ 『憾』の草稿譜。修正の跡がある。(提供:竹田歴史文化館・由学館)

2019年、滝廉太郎が『憾』を作曲していた当時の自筆譜が発見されました。3パターンの『憾』が見つかっており、譜面全体に「×」が書かれたり、音符が殴り書きされていたりと、当時の廉太郎の作曲過程が分かります。
さらに特徴的なのは、譜面に残された「Doctor Doctor」の文字。肺結核を患い自身の若すぎる死に「もっと生きたい」という願望が現れているかのようです。
また、『憾』は廉太郎の名前と同じ「レ」で始まり、「レ」で終わっています。ここにも滝廉太郎の願望が込められているかもしれませんね。

譜面内に「Doctor doctor」の文字

▲ 譜面内に「Doctor doctor」の文字(提供:竹田歴史文化館・由学館)
【ミニコラム②】アカデミー賞受賞作に『荒城の月』が使われた
La La Landの主演であるエマ・ストーン(左)とライアン・ゴズリング(右)

▲ La La Landの主演であるエマ・ストーン(左)とライアン・ゴズリング(右)

滝廉太郎の作曲した『荒城の月』は、海外からも高く評価されています。なんと、ベルギーの教会で讃美歌として使われているようです。
さらに2017年に公開され第89回アカデミー賞6部門を受賞した『LALALAND』で『荒城の月』をアレンジした曲が使われています。作中では『Japanese Folk Song』として収録されていますが、それほどまでに世界からも評価されている曲を生み出した滝廉太郎は、日本が誇る作曲家といえますね。

なお、『荒城の月』は2パターンあります。作曲家の山田耕作が一般向けに編曲した『荒城の月』が馴染み深い方もいるかもしれません。山田耕作版はテンポを半分にした16小節で、歌詞にある「花の宴」の「え」を廉太郎版より半音下げています。
聴き比べてみても楽しいかもしれませんね。

【ミニコラム③】実はこんなところで滝廉太郎の音楽が流れます

大分県で育った滝廉太郎ですが、県内のいくつかのスポットで彼の音楽を耳にできます。

その1:廉太郎トンネル

廉太郎トンネル

瀧廉太郎記念館から徒歩3分ほどの場所にある「廉太郎トンネル」。15mほどのトンネルですが、中を歩くと廉太郎が作った曲が流れます。
『荒城の月』は1年を通して聴くことができますが、春から夏は『花』『水あそび』、秋から冬は『鳩ぽっぽ』『秋の月』がオルゴールの音色で楽しめます。

廉太郎トンネルの詳細

[住所]大分県竹田市竹田町434
[アクセス]豊後竹田駅より徒歩約10分

その2:メロディロード

メロディロードの場所

▲ メロディロードの場所。岡城跡の目の前にある。

滝廉太郎が育った豊後竹田では、電車が到着する際のメロディに『荒城の月』が流れてきます。
また、メロディロードと呼ばれる車道も用意されているのも魅力的。『荒城の月』のモデルとなった岡城址の下にある国道502号を車で通過すると、タイヤと舗装の接触音などで『荒城の月』が聞こえてきます。近くを通った際は、ぜひ『荒城の月』のメロディに耳を傾けてください。

メロディロードの詳細

[住所]大分県竹田市片ケ瀬(国道502号線)
[アクセス]豊後竹田駅より車で約5分

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